定陶の戦いとは? わかりやすく解説

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定陶の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/23 13:40 UTC 版)

定陶の戦いは、二世皇帝2年(紀元前208年)に定陶(現在の山東省)で起きた、秦の少府章邯と楚の義軍の戦い。秦が大勝して、楚の項梁が戦死した。

概略

章邯は田臧鄧說中国語版伍逢中国語版蔡賜といった義軍の諸将を次々に破り、反乱を起こした楚王陳勝を直取しようとしていた。

陳勝は城父にいた時、自らの部下莊賈中国語版に背かれ殺害された。章邯は魏王の魏咎を包囲し、救援に来た田儋を敗死させて、魏咎は自殺した。章邯はさらに、斉の田栄を攻めた。

二世皇帝2年7月、楚の将軍項梁が兵を率いて北伐を敢行、田栄が援軍として来た。東阿(現在の山東省)、濮陽(現在の河南省)、定陶、城陽(山東省)、雍丘(河南省)で、章邯が連敗して孤立無援になり、相国の李斯の長子の李由洛陽郡守)が斬殺された。連勝したことで、項梁は秦が兵士不足で恐れをなしたと見なし、無視した武将宋義は努力して戦いに備えるように建議した。

8月、章邯が朝廷から援軍を得て、猛攻を仕掛け、項梁を敗死させた。その後、更に北上して趙を攻めた。

参照

  • 司馬遷. . . [-61].[要文献特定詳細情報]

関連項目




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