雲右衛門の凱旋・劇場芸・レコード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 22:47 UTC 版)
「浪曲」の記事における「雲右衛門の凱旋・劇場芸・レコード」の解説
日露戦争勝利の余韻もまだ冷めない1907年(明治40年)、三河家梅車の妻お浜との駆け落ちにより雌伏し、突如弟子入りを志願してきた大陸浪人の宮崎滔天を配下にしていた桃中軒雲右衛門が、総髪、紋付袴姿で屏風を背に、「不弁」と言うのみで(つまり外題付けも無しに)いきなり本題に入るという新演出、「武士道鼓吹」を旗印にし、演目は玄洋社の助力により台本内容を高めた義士伝ばかりという新機軸で、一息が非常に長い「三段流し」を駆使し、研鑽の地・九州(炭坑夫、港湾労働者から火が点き、それまで多く行なっていた慈善興行(美当一調を踏襲している)により上流・中流の婦人に人気があったという)から神戸(有栖川宮妃の御前口演もあった)、大阪、京都と東上しつつ続々と沸かせてゆく。それが新聞記事により大きな話題になる中、ついには6月、東京の大劇場本郷座に進出、27日もの間、連日3時間以上の長講、2500人収容の劇場を超満員にする。風雲児・雲右衛門により、人気は大衆的なものから、当時から浪花節を嫌悪していた上流・中流層にまで広がり、世を席巻する。雲右衛門のインパクトは強く、浪曲のスタイル確立へ大きく影響した反面、居丈高なイメージも浪曲の一般的なイメージ形成にいまだ影響を与えて続けている。直後の1908年(明治41年)2月、大阪の吉田奈良丸も対抗するように「日本一」の呼び声を伴い東上し、新富座に出演、さらに11月には京山小円も同座に上がるなど、寄席芸として定着してわずか20年ほどの新興演芸・浪花節は、一気に千人以上の客席を埋めることが出来る劇場芸能となる。 雲の東上後に桃中軒如雲、天中軒雲月、篠田実、山田芳夫、梅中軒鴬童などが「天才少年」として全国から続々登場し、それぞれ人気を呼ぶ。 こうして浪花節は、明治末期には落語や講談をはるかにしのぐ人気となる。明治38年には東京の浪曲師の数が落語家や講談師を抜き、明治40年には448名とピークを迎える。落語家の2倍強、講談の4倍弱である。当時の寄席読みの名人としては、東西に一心亭辰雄、春日亭清吉、初代東家楽遊改め悟楽斎三叟や岡本鶴治(おかもと かくじ)などがいる。 奈良丸のレコードが発売され、代名詞となった「日本一」の流麗な語りで、合わせて売上50万枚に及び、誕生間もない日本のレコード・蓄音機の全国的普及に大きな貢献を果たす(この時期以降の浪花節(浪曲)の人気者は数多く吹き込み音源化されている)。その後、三河屋円車の『どんどん節』や、奈良丸のメロディを使った俗曲『奈良丸くずし』またこの時期、落語や講談から一足遅れで、浪花節でも速記本が多数出版される。ちなみに当時(1912年)、浅草寺の境内(薬師堂脇)で見世物の一つとして聞くことが出来た蝋管レコード屋の浪花節(木村重松、浪花亭愛造、鼈甲斎虎丸等の節まね)その演目は「中山(堀部)安兵衛、赤垣源蔵、大岡政談、五寸釘寅吉、鍋島猫騒動、雷電小野川、国定忠治、安中草三郎、宮本六三四(武蔵)、天一坊、桂川力蔵、幡随院長兵衛、檜山大作、明石仁王、宮本左門之介、桜川五郎蔵、御笑、山中鹿之助、鼠小僧、姐妃お百、河内山宗俊」というものだった。講談が盛んに取り入れられ、義士伝が浪花節の演目として加わり始めていた。 そんな中で1913年(大正2年)、『講談倶楽部』の臨時増刊『浪花節十八番』刊行に当たり、講釈師連と出版元・講談社の対立も起きる。また、この時期、関東では浪花節の名の元となった言われるほどの名門浪花亭から重勝、重松、重友、重正など木村一派が独立する騒動が起きる。 1904年7月4日、大審院は、桃中軒雲右衛門の海賊版レコードの著作権違反事件で、浪花節は著作権法上の音楽的著作物でないと判定し、損害賠償請求をも否定した。 「浪花節」が「浪曲」と呼ばれ始めたのは新聞紙上で、その後徐々に広まり、昭和に入ってから「浪花節」の呼び名に取って代わるようになる。この頃から多くの浪曲師により忠臣蔵が浪花節で演じられる。あまりに義士伝ばかりがかかるため、「義士伝禁止」の貼紙が楽屋に掲げられたり、当時の川柳に「武士道も ついに彼らに 鼓吹され」と言われたりするほどで、その内容は、武士道に拍手をする民衆の視点よりも、武士道それ自体の宣伝にと視点が変わっていった。わかりやすさを買われて浪花節は早くより民衆教化に利用され、1919年(大正8年)、国民思想統一を旗印に古賀廉造らの肝煎りで「通俗教育研究会」が結成され、翌1920年(大正9年)の第1回国勢調査で大阪市・東京市の要請を受け、宣伝と説明の役を担う。また、当時盛んに行われ急増した海外移民に対する排日感情が高まる中、移民を追って奈良丸を始めとした浪曲師たちにより、樺太、台湾、朝鮮、満州はもちろんのこと、ハワイやアメリカ合衆国本土、ブラジルまで海外巡業が行われるようになる。 一時停滞した浪花節も、前記の三巨頭の次の世代、三代目鼈甲斎虎丸、東家楽燕、木村重友で「三羽烏」、さらに初代天中軒雲月を加え、四天王と称される。1923年(大正12年)、関東大震災の後、篠田実のレコード『紺屋高尾』が空前の大ヒットを飛ばす。寄席は、内容が飛躍的に充実していく活動写真(映画)に興行的に押され始める。弁士に転向した例も多くあったという。 一握りである劇場読みの大家は、大きな資産を持つほどになるが、多くの無名浪曲師は地方巡業や寄席出演で糊口を凌ぐ。大家の偽物や紛らわしい芸名のエピソードも数多くあった。 以下は、1919年(大正8年)に関西のオリエントレコードを傘下にし、日本の蓄音器レコード界の最大のメーカーとなったニッポノホン(日本蓄音器商会。現・日本コロムビア)総目録(1926年(大正15年)5月発行)のジャンル別内訳である。 ジャンル発売枚数代表作品童謡 37 「十五夜お月」本居みどり子など 独唱唱歌 74 「埴生の宿」原信子、「シューベルトの子守唄」三浦環など お伽歌劇 29 「一寸法師」など 歌劇劇歌 13 「ゴンドラの唄」松井須磨子、「カルメンの唄」中山歌子など 吹奏楽管弦楽 42 「君が代行進曲」海軍軍楽隊、「ダニューブ・ワルツ」「軍艦行進曲」陸軍戸山軍楽隊など 独奏 15 <ヴァイオリン>「ミニュエット」<ベートーヴェン>カスリーン・パーロウ(英語版)など ハーモニカ 37 「ラ・パロマ」「越後獅子」川口章吾など 合奏 11 <和洋合奏>「新内流し」「奴さん」など 尺八 30 <都山流、琴古流>など 琵琶 117 <錦心流、筑前琵琶、高峰琵琶>など 謡曲 21 「隅田川」宝生九郎など 長唄 116 「娘道成寺」芳村伊十郎など 清元 55 「神田祭」喜久太夫など 常磐津 33 「将門」松尾太夫など 新内 13 「蘭蝶」富士松加賀太夫など 歌沢 16 「夕ぐれ」歌沢寅右衛門など 端唄小唄 64 「都々逸」「大津画」「さのさ」「海晏寺」「鬢のほつれ」「御所車」※なお次項に「俚謡」の部があるが、端唄小唄の部に「鴨緑江節」「汐来節」「仙台節」「木曽節」「大島節」などが混載されている。 俚謡 64 「安来節」三津島勝子、「磯節」関根安中、「追分」「八木節」など 歌舞伎劇 43 「与話情浮名横櫛」尾上梅幸など 映画説明 10 「アントニーとクレオパトラ」染井三郎ほか 太神楽、阿呆陀羅経 11 「伊勢音頭」梅坊主など 落語 28 「そこつ長屋」柳家小さんなど 浪花節207東家楽燕、吉田奈良丸、天中軒雲月、篠田実、桃中軒雲右衛門など義太夫 74 「寺子屋」竹本南部太夫など
※この「雲右衛門の凱旋・劇場芸・レコード」の解説は、「浪曲」の解説の一部です。
「雲右衛門の凱旋・劇場芸・レコード」を含む「浪曲」の記事については、「浪曲」の概要を参照ください。
- 雲右衛門の凱旋・劇場芸・レコードのページへのリンク