新興演芸
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1939年(昭和14年)3月29日には演芸部が発足、吉本興業からミスワカナ・玉松一郎、香島ラッキー・御園セブン、益田喜頓、坊屋三郎らを引き抜き一時は大騒動に発展する。背景には吉本の所属芸人があまりにも多くなり、少々の活躍ではギャラアップや劇場での出演順のランク上昇などが認められなくなっていたことが挙げられる。また新興では当初から芸人が異なるエリアの劇場をローテーションする興行体制を予定したことや、映画製作による収益等も見込んでギャラ等を計算したため、芸人にとっては大幅な待遇改善・ギャラの上昇につながった。 「松竹芸能#吉本興業との関係」も参照 坊屋三郎は後に当時のことを「吉本では10日毎に新ネタを要求されていたのが新興では(大阪・京都・神戸の劇場を10日毎にローテーションするため)新ネタは1ヶ月毎でよくなりきちんとした作家も付く。独立したショーが用意され一流のバンドやダンサーもつく。おまけに月給も90円から300円に上がるとなると、これでOKしないのはバカだよ」と語っている。これに対し吉本側も芸人たちの新興側の劇場への出演を禁じる仮処分申請を行ったり、暴力団を使って実力で興行を阻止しようとしたりといった方法で対抗したが、既に日中戦争が始まっているという時節柄もあってか京都府警・大阪府警が調停に乗り出す。結局同年5月22日に両社の間で和解が成立し、正式に芸人の移籍が認められた。さらに1941年(昭和16年)には、漫才作者として有名な秋田實が吉本興業から同社に移籍し文芸部長に就任している。
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