日本・雲南遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 14:21 UTC 版)
臨安陥落後、アラカンや董文炳とともに浙江・福建地方の平定に従事し、蒙古軍副都万戸・江東道宣慰使に昇格した。1281年(至元18年)には「都元帥」に任じられ、日本遠征(弘安の役)を命じられたが、何らかの理由で日本には到着せず「未だ至らずして帰った」という。日本遠征の失敗後、雲南行省参知政事に任じられて金歯・ビルマの討伐に従事していたが、病にかかったために一度中央に戻った。改めて河南道宣慰使に任じられ、また特に父のかつての職「蒙古軍都万戸」を継ぐよう命じられた。
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