日中戦争・第二次世界大戦
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日中戦争間は、援蒋ルートをめぐって中国国民党軍と日本軍との間で攻防戦(拉孟・騰越の戦い・ビルマの戦い)が繰り広げられた。
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日中戦争・第二次世界大戦
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「エドガー・スノー」の記事における「日中戦争・第二次世界大戦」の解説
日中戦争が開始した1937年、スノーは工業合作社(Chinese Industrial Cooperatives ,INDUSCO)の創立メンバーとなっていた。工業合作社 の目的は、日本の支配が及んでいない地域で労働者協同組合を作ることであった。スノーの役職は、プロパガンダ部門であった 。工業合作社は1850個の組合を作るにいたった。スノーは漢口の海軍YMCAで、日本軍による武昌爆撃を生き延びた「日本人民反戦同盟」の反戦活動家で、長谷川テル国民党国際宣伝所所属の反戦・抗日運動家)とも交流のあった鹿地亘とその妻池田幸子と知り合う。 日中戦争が激しさを増した1941年にスノーは日本軍の支配地域を訪問し、『アジアの戦争 (The Battle for Asia) 』を出版した。同書で日本軍による南京大虐殺を報道し、話題となった。フランクリン・ルーズベルト大統領はこの『アジアの戦争』を読み、日米開戦直後にスノーを大統領執務室に呼び出し、話を聞いた。大統領はスノーを非公式な情報提供者に任命した。しかし、『赤い星』はソ連・コミンテルン、中華民国にいた共産党シンパの欧米人やスターリニストだった宋慶齢らから分離主義として非難を浴びた。なお、戦後にニクソン大統領、ビル・クリントン大統領も『赤い星』を読んで訪中した。 スノー夫妻は帰国したが、二人は離婚した。 1942年4月、サタデイイブニングポストはスノーを戦争特派員としてインド、中国、ロシアへ赴き、ロシアではスターリングラード攻防戦を観察した。 1944年、スノーは中国共産党が「農地民主主義(農本思想)」か、それとも全体主義に走るものかどうかについて揺らいだ が、同年の演説でスノーは毛沢東と共産党は進歩的勢力であり、中国を解放し、民主化すると述べた。しかしまた、スノーは中国共産党は、近未来での共産主義の建設意思を放棄しつつあると述べた。
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