中支戦線、ビルマ戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:10 UTC 版)
1943年8月、大佐に進級し、支那派遣軍第3課長として中国大陸に赴任した。この時、戦局が不利になりはじめた事により対蔣介石政権講和を東條に進言、辻自らによる重慶乗り込みによる直接講和交渉をしようとしたが、東條を始め陸軍首脳に反対され失敗した。この事もあって東條に嫌われた辻は1944年(昭和19年)7月、第33軍参謀としてビルマに赴任した。 ビルマにおいては拉孟・騰越の戦いに参陣した。「軍は龍稜方面の敵に対し攻勢を企図しあり、『バーモ』(拉孟)『ナンカン』地区の防衛は未完なり、水上少将は『ミイトキーナ』を死守すべし」とミートキーナ守備隊指揮官・水上源蔵少将個人宛の死守命令を起案し軍命令が発令。水上少将は独自の判断で「ミートキーナ守備隊の残存しある将兵は南方へ転進を命ず」と部隊に脱出を命じ、自分は部隊の渡河を見届けてから責任をとり自決した。その結果、水上部隊の一部は包囲網の突破に成功して生還した。 既に第15軍が壊滅して劣勢の日本軍であったが、15倍の英印軍、および米式装備の中国軍に対する遅滞戦闘を実施した。これにより、更に損害は増大した。この作戦以後インド国民義勇軍は作戦地図より消滅。大部分のビルマ方面軍はタイのシャン高原付近へ敗走し終戦を迎える。辻自身は作戦指揮中、寝返ったビルマ軍の襲撃を受け負傷、後送される。
※この「中支戦線、ビルマ戦線」の解説は、「辻政信」の解説の一部です。
「中支戦線、ビルマ戦線」を含む「辻政信」の記事については、「辻政信」の概要を参照ください。
- 中支戦線、ビルマ戦線のページへのリンク