帰国後の活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:36 UTC 版)
帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。 嘉永6年(1853年)7月8日にペリーが江戸に来航し、7月17日に江戸を後にしたが、来春の黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、7月25日に万次郎は幕府に召聘されて江戸へ行き(8月30日着)、直参の旗本の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。万次郎は江川英龍の配下となり、江川は長崎で没収された万次郎の持ち物を返還させた。勘定奉行川路聖謨からアメリカの情報を聞かれ、糾問書にまとめられている。1856年軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいる。 安政元年(1854年)、幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚。 藩校「教授館」の教授に任命されるが、役職を離れた。理由の1つには、中浜がアメリカ人と交友することをいぶかしがる者が多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに話せるのは中浜万次郎1人だったため、マシュー・ペリーとの交渉の通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出したため、結局はペリーの通訳の役目から下ろされてしまったが、実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した。 万次郎は幕府が建造した西洋式帆船の君沢形を、西洋式の航海実習も兼ねて捕鯨に使用することを提案し、中浜万次郎が指揮する「君沢形一番」(同型艦は10隻)は安政6年3月(1859年4月)に品川沖を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により船は損傷し、航海は中止となった。 万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は代わってジョン・ブルックとともに船内の秩序保持に努めた(彼はアメリカ人との交友を日本人船員に訝しがられることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)。サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰路ホノルルではSamuel C. Damon(英語版)と再会した。帰国時に同行の福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。 文久元年(1861年)には外国奉行・水野忠徳に同行し、小笠原諸島などの開拓調査を咸臨丸を含む四隻の艦隊で行った。中浜が小笠原付近に知識があり、当時小笠原に住んでいたアメリカ人やイギリス人との面識もあり、通訳もできるために選ばれた(ここでアメリカ人開拓者ナサニエル・セイヴァリーと再会している)。後には君沢一番丸というスクーネル船で小笠原諸島近海でアメリカ式捕鯨を実験的に行った。 文久2年(1862年)、豪商平野廉蔵の出資で買い取った外国船「壹番丸」で捕鯨を行う許可を幕府に提出し、出船を命じられる。翌年には父島在住の外国人6名を雇い、同船で小笠原諸島近海にて捕鯨を行い、鯨2頭を捕獲している。しかし、ここで先の外国人が逮捕されるホーツン事件が起こる(初めて外国人を逮捕した日本人になる)。江戸に帰航した後、再度捕鯨航海を企図するも政情不安のために幕府の許可が下りず、翻訳をしたり細川潤次郎などの士民に英語の教示を行ったりしている。 1864年から鹿児島赴任になり、薩摩藩の開成所の教授なる。また、1865年に長崎で薩摩藩が船舶5隻購入し、その交渉を行なっている。 慶応2年(1866年)、土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える。また、藩命により後藤象二郎と長崎・上海へ赴き土佐帆船「夕顔丸」などを購入。 慶応3年(1867年)、薩摩藩の招きを受けて鹿児島に赴き、航海術や英語を教授したが、同年12月には武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻った。 明治維新後の明治2年(1869年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される。 明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣される。アメリカ経由で行く。8月28日に米外輪船グレート・リパブリック号で横浜発、9月23日にサンフランシスコ着、鉄道を利用して10月28日にニューヨークに行き、ここでフェアヘーブンにより、アメリカで恩人のホイットフィールドと再会した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また身に着けていた日本刀を贈った(この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていたが、後に何者かに盗まれ行方不明になり、現在はレプリカが展示されている)。[要検証 – ノート] 11月にロンドンに着くが、発病のため英蒸気船ダグラス号でスエズ運河を通り東回りで帰国。 帰国後に軽い脳溢血を起こし、数か月後には日常生活に不自由しないほどに回復するが、以後は静かに暮らす。時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、教育者としての道を選んだ。万次郎の雑記の断片から、老後(1888年)にも小笠原諸島近海で航海を行なっていた可能性がある。 明治31年(1898年)、71歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られており、墓石は東京大空襲で傷ついている。 昭和3年(1928年)、正五位を追贈された。
※この「帰国後の活躍」の解説は、「ジョン万次郎」の解説の一部です。
「帰国後の活躍」を含む「ジョン万次郎」の記事については、「ジョン万次郎」の概要を参照ください。
帰国後の活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 14:36 UTC 版)
帰国後まもなく、吉原出身の女性さくと結婚。明治14年(1881年)第二回勧業博覧会では《過雨秋叢図》で妙技三等賞を受賞。明治15年(1883年)のアムステルダム万国博覧会で銅賞受賞。明治16年(1884年)からはフェノロサらが主催した鑑画会に参加、明治19年(1887年)の第二回鑑画会大会に出品した《月夜の杉》で二等褒状。これらの作品は所在不明で、図様すら分からない。しかし、明治26年(1893年)のシカゴ万博博覧会に出品した代表作「雪中群鶏図」を最後に、殆どの展覧会へ出品しなくなる。その理由として、博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもったためと説明される。ただし、明治37年のセントルイス万国博覧会には出品し、金牌を受賞したとする資料もある。
※この「帰国後の活躍」の解説は、「渡辺省亭」の解説の一部です。
「帰国後の活躍」を含む「渡辺省亭」の記事については、「渡辺省亭」の概要を参照ください。
帰国後の活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 14:23 UTC 版)
このような戦中・戦後の死線をくぐり、日本に帰還した学徒兵は多くが元の学校に復学し卒業した後は戦後日本の復興や発展の牽引役となった者も現れた。答辞を読んだ江橋慎四郎は出陣後、航空整備兵として内地で陸軍に所属して無事生還し、後に東京大学教育学部教授や鹿屋体育大学学長になった。早稲田大学第一商学部から陸軍特別操縦見習士官に志願した竹下登も戦後に卒業して故郷の島根県で県議となり、後に内閣総理大臣まで務めた。竹下の後に内閣総理大臣となった宇野宗佑は神戸商業大学在学中に学徒出陣となり、シベリア抑留を経て帰国した後も大学には戻らず滋賀県県議から政治家の道を歩んだ。宇野内閣では内閣官房長官の塩川正十郎も慶應義塾大学経済学部の学生として明治神宮外苑の壮行会から出征した(出征中に卒業扱いとなった)。竹下と宇野、それに明治大学専門部政治経済学科から1944年(昭和19年)に徴集され、戦後復学して卒業した村山富市の3人が、日本の内閣総理大臣になった学徒出陣経験者である。また、宮澤内閣の副総理などを務めた渡辺美智雄も東京商科大学を繰り上げ卒業し学徒出陣した。このほか、日本統治時代の台湾に生まれ、後に中華民国総統になった李登輝(日本名:岩里政男)も京都帝国大学在学中に学徒出陣している。 茶道裏千家の家元の家に生まれた千玄室は同志社大学法経学部経済学科在学中に徴兵を受け海軍で志願して特攻隊員となったが、出撃前に戦争が終結したために大学に復学し後に第15代家元を襲名した。千の居た部隊で生き残ったのは2人だけで、もう1人が日本大学専門部芸術科から徴兵された後に俳優になる西村晃だった。 宇野や塩川は自分の戦争体験を(宇野はその後の抑留を含めて)著書や講演などで語った。一方、江橋は沈黙を守っていたが、学徒出陣式から67年後の当日になる2010年10月21日付の朝日新聞でインタビューに答え、2013年の同日には毎日新聞の取材にも応じた。毎日新聞のインタビュー記事では「僕だって生き残ろうとしたわけじゃない。でも『生還を期せず』なんて言いながら死ななかった人間は、黙り込む以外、ないじゃないか」と述べ、戦後に事実と異なる噂やデマによる中傷にも反論しなかった理由としながら、「自分が話すことが、何も言えずに亡くなった人の供養になる。最近そう思っている」として、自らの姿勢を変えたことを説明している。
※この「帰国後の活躍」の解説は、「学徒出陣」の解説の一部です。
「帰国後の活躍」を含む「学徒出陣」の記事については、「学徒出陣」の概要を参照ください。
- 帰国後の活躍のページへのリンク