帰国後・晩年
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1931年(昭和6年)、松竹蒲田撮影所に入社し、草人の帰朝記念映画として『愛よ人類と共にあれ』が製作され、主演した。当時の大スター鈴木伝明、田中絹代、岡田時彦らが共演し、アメリカからマック・スウェインらも出演するという豪華出演者による大作映画となった。翌1932年(昭和7年)封切りの松竹下加茂撮影所製作『唐人お吉』には、ハリス役という、外国人役で出演した。1935年(昭和10年)、片岡千恵蔵プロダクションと日活の提携作品で伊丹万作監督の『赤西蠣太』で按摩安甲役を好演。1939年(昭和14年)に新興キネマ専属となり、数作に主演後、1942年(昭和17年)の戦時統合による合併で大映専属となったが、セリフ回しに癖があるなどの理由からしだいに振るわなくなっていった。 1954年(昭和29年)、黒澤明監督の『七人の侍』で琵琶法師役で出演、セリフは一切なく、ただ黙々と琵琶を弾いているだけの演技であった。続いて稲垣浩監督の『宮本武蔵』に年寄役で端役出演したが、同作封切りの2カ月前の7月28日、腸閉塞手術後に容態が悪化し、午後9時8分に東京都世田谷区の大脇病院で死去。70歳没。8月3日に東玉川の自宅で告別式が営まれた。墓所は青山霊園。
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