帰国後の詩作活動
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彼の斬新な訳文は当時の文学青年に多大な影響を与え、特に新感覚派運動の誘因となった。帰国後に文化学院大学部でフランス近代詩を講ずる。以後、ヴェルレエヌの研究評伝を手がけ、戯曲訳にも手を染め、ジャン・コクトーをはじめ、一一家十三篇を訳す。1928年(昭和3年)日夏耿之介、西條八十との共同編集で詩誌『パンテオン』を創刊。岩佐東一郎、青柳瑞穂、城左門、田中冬二、矢野目源一、熊田精華らの若い詩人が集う。4月に文化学院を辞任。しかし、翌年に日夏耿之介との確執が起き、決別し『パンテオン』が廃刊。自ら後継詩誌『オルフェオン』を第一書房から創刊し、新たに菱山修三が加入し、機知感覚の詩風は、シュルレアリスム詩『詩と詩論』と共に詩壇に新風を与えた。 1932年(昭和7年)小石川区(現・文京区西部辺り)に居を構え、6月に『昼顔』を発行するが発禁処分となる。1935年(昭和10年)に日本ペンクラブの副会長に推される(会長・島崎藤村)、文芸誌『若草』の詩選を担当し、京都の『時世粧』の編纂人となる。翌年5月にジャン・コクトーが来日した際は帝国ホテルに同宿して歌舞伎などを案内している。国家総動員法の公布に伴い、日本学者のジョルジュ・ボノーと野尻湖畔のレーキサイドホテルにこもり、仏訳に専心した。しかし、著書が情報局検閲で削除されるなど思想弾圧を受けた。1941年(昭和16年)に静岡県興津に疎開。翌年に師・与謝野晶子が死去し、青山で挽歌十首を捧げた。1945年(昭和20年)に被爆下の静岡を脱出し、新潟県関川村(現:妙高市)に再疎開。1945年(昭和20年)秋には父が亡くなり故郷で葬った。1946年(昭和21年)より新潟県高田市(現:上越市)に転居。
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