帰国者差別
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「在日朝鮮人の帰還事業」の記事における「帰国者差別」の解説
詳細は「出身成分」および「脱北者」を参照 社会主義体制下の北朝鮮社会にとっては、帰還者たちは朝鮮半島にルーツを持ちながらも、アメリカ風の資本主義の生活を肌で知り、半ば日本化された異質な集団だった。体制への不満・批判に対し厳格な北朝鮮では、このような行動は手ひどく扱われる原因となったと考えられている。強制収容所に送られた帰還者も多く、消息・安否が不明とされている者も少なくない。「里帰り嘆願書」に署名した日本人夫・日本人妻とその家族は、電気も通らない僻地に追放されるか、入ったら2度と出ることのできない「管理所」に送られた。署名していなくても、親類が署名したら連座して学校を退学させられ、山奥での原始的な生活を余儀なくされる学生がいた。 多くの人々が輝ける祖国のことを聞き、まだ見ぬ祖国に対して憧れを抱いたが、現実はそれを裏切った。やがて、在日朝鮮人の間や日本国内においても次第に北朝鮮の実情が明らかになるにつれ、帰還者の数は激減していった。また日本の経済発展が進むことによって、在日朝鮮人が生活苦により北朝鮮へ向かう理由も失われた。現に脱北して韓国で一定の期間を過ごした後、韓国国籍のパスポートで日本に再渡航した者も少なくなかった。 1984年、金元祚は『凍土の共和国』を出版し、祖国訪問団に参加した日記という体裁で、生活に窮乏する帰還者たちの姿を描いた。その中では、単なる生活物資の工面に留まらず、よりよい配置や居住地の提供に誘われて、帰還者たちが所属する事業所で必要な資材を、祖国を訪問した在日朝鮮人に無心する場面がある。 朝鮮総連の幹部だった韓光煕によれば、在日朝鮮人のなかではエリート集団と自他にみとめる学習組も、本国の朝鮮労働党からすれば末端のフラクション(分派)にすぎず、労働党幹部からすればようやく人として認められるかどうかという程度の存在にすぎなかったという。強制収容所(管理所)の警備隊員だった安明哲の証言によれば、帰国同胞はしばしば「スパイ」の嫌疑をかけられ、収容所内では特に過酷な処遇を受けており、帰国同胞の女性がなぶり殺しにされる現場にも遭遇している。彼は、保衛員や戒護員が政治犯たちを殴りつけ、鞭打ち、怒鳴り声をあげるのを毎日聞いているが、それはだいたい夕方の早いうちから始められ、夜明けまで続けられた。ある時、50歳くらいの女性の帰国者が鞭打たれ、最後には自らへの呪詛と叶えられるはずもない心情をたどたどしい朝鮮語で戒護員にぶつけるのを聞いている。 ああ、私はどうして日本から北なんかに来たんだろう。なんでこんなことが見通せなったんだろう。夫にくっついて子供まで連れて…故郷だからと思ってついてきたのに、私がなんだってスパイにされなきゃならないんだ。日本の親戚たちは私たち家族がどんな目に遭ってるかも知らず、よい暮らしをしてるとばかり思っているのに。おい、犬畜生! うちの家族を日本にまた送り返せ! それができないと言うなら全員殺すなりしろ! もうこれ以上、こんなふうに生きるのはいやだよぉ… 彼女はそう叫んだあと、警棒で殴られ、絶命した。その後、保衛部長が日章旗や日本刀、天皇から下賜されたという勲章、免許証、下駄、着物などを示しながら、政治犯に対する敵愾心を緩めることの決してないよう、訓示を述べたという。青年時代に部落解放運動に身を投じた経験のある萩原遼は、北朝鮮は「日本の部落差別よりも何百倍もひどい差別政策」を国家の政策として採用していると指摘している。 1997年11月、北朝鮮へ渡った日本人配偶者を対象として、初めての里帰り事業が行われた。 日本からの帰国者に対しては、北朝鮮のゲシュタポ「国家安全保衛部」による監視制度と根強い差別がある。
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