帰国後の文芸と文教活動
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1922年 - 帰国後、安慶法政専門学校で英語を教えるが、翌年に辞職。3月に『創造季刊』主編第1期を創刊。 1923年 - 5月、『創造周報』を創刊。7月、小説『春風沈酔の夜』を発表。10月、 北京大学の講師になり、統計学を教える。 1924年 - 国立武昌師範大学に赴き、教師になったが同年11月に辞職した。 1925年 - 雑誌『洪水』を立ち上げる。 1926年 - 郭沫若達と広州中山大学文学院に就職するも、その年末に辞職している。 1930年 - 左翼作家連盟が上海で結成され、創始会員となるが、しばらくして退会する。この年、安徽大学中文系の教授になるが、わずか四ヶ月で退職している。 1933年 - 上海をへて、杭州に転居する。 1934年 - 浙江省政府の参議になる。 1935年 - 『中国新文学大系』散文2集の主編となる。 11月に中編小説『出奔』を発表。これが郁達夫最後の一篇小説となる。 1936年 - 友人である福建省首席陳儀の要請に応えて、福建省政府参議兼公報室主任となる。同年11月13日、日本を訪問。12月17日、帰国の途中に台湾を訪れ、楊雲萍、黄得時など文化人と会見する。
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