帰国後の営業再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:00 UTC 版)
1948年(昭和23年)、喜久子は日本での営業再開に取り掛かった。資金不足のため、粗末な家で暮しながら、サッカリンの販売、進駐軍家族への出張美容、上海仕込みのセンスをいかしての婦人服デザインの顧客相談員を経て、5万円の資金を貯めた。その後に、銀座でデザイナーを募集している店舗を見つけ、本職ではなかったものの、ある程度の心得があったため、同1948年秋、デザイナーとして開業した。わずか3坪の物件を借りての営業再開であった。 より良い物件を望んでいたところ、PX(アメリカ軍専用の売店)となっていた銀座の松屋の接収解除を知った。松屋はかつて憧れていた店であり、当時の喜久子は金こそ無かったものの、仕事にかける情熱なら誰にも負けないとの自信を抱いていた。半年以上を費やして、根気と押しの日々の末に、10数人の出店希望者に競り勝った。さらに高利貸しを営んでいた美容関係者から、無利子・無催促で開設資金を借金できるという幸運もあった。 1953年(昭和28年)5月、銀座の松屋に「松屋美容室」を開設した。鏡が10面、美顔室が2つ、「美人」と称する15人の従業員が話題となった。「松屋の牛山」ブランドへの確立の第1歩と呼べる、華々しい開店であった。マヤ片岡と共に、この時代を代表する美容家の1人となった。その一方で、有名となったがための客からのクレーム、借金の返済、生まれて初めての約束手形の振り出しなど気苦労も多く、神経性の円形脱毛症ができるほどだった。 同1953年4月、後進の育成のため、品川区上大崎に牛山美容文化学園(カネボウ総合美容学校の前身)を創立した。佐伯チズもこの学園で学び、後に喜久子の店の従業員となった。 翌1954年(昭和29年)、宮本三郎による喜久子の肖像が『週刊朝日』11月7日号の表紙を飾り、その原画は喜久子の宝物となった。その後も美容室の展開、日本ヘアデザイン協会の創立、テレビ番組『くらしの窓』(NHK)のレギュラーなどのメディア出演、東京大神宮マツヤサロンなどの婚礼美容の担当など、約10年間にわたって、かつてないほどの多忙を極めた。特に白髪をカラーリンスした個性的な美しさは、中年美として評判となった。 美容家としては順風満帆といえたが、自身は決してそれに満足することはなく、美容の本場と言えるフランスやイタリアへもわたり、丹念に美容の感覚を磨いた。美容を目指す前の学生時代には大正デモクラシーに影響されて「海外へも羽ばたきたい」との思いを密かに抱いており、奇しくも美容家としてその夢を叶えることとなった。世界美容家協会にも入会し、業界の国際的交流の橋渡しの役も務めていた。
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