帰国後、病院長就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 01:00 UTC 版)
1901年(明治34年)4月1日、第一高等中学校医学部は文部省直轄諸学校官制改正により千葉医学専門学校として独立 (勅令第24号)し、医学科(4年制)・薬学科(3年制)を設置した。1902年(明治35年)7月16日、県立千葉医学校・第一高等中学校から引き続き千葉医学専門学校の初代校長・附属病院院長を勤めた長尾精一が亡くなり、荻生録造が第二代校長・病院長に就任した。荻生が1903年(明治36年)よりドイツに留学することになり、一時徳寛が校長並びに病院長代理を勤めた。校長代理時代の1904年(明治37年)日露戦争が勃発、千葉医学専門学校長は赤十字社支部看護婦養成所長も兼ねており、日露戦争戦傷者を収容した東京予備病院千駄ヶ谷分院及び戸山ヶ原分院での治療を担当すると共に派遣看護婦の管理督励を行った。これにより1906年(明治39年)、国より勲四等瑞宝章を、赤十字社より銀杯一個を贈られた。 1909年(明治42年)維新以降の急激な社会変革の犠牲となった貧困層の救済に立ちあがり、同年6月貧困患者救済のための委員会を立ち上げ委員長に就任した。1931年(昭和6年)12月文部省の認可を得て資金は寄付行為によることとなり、「財団法人千葉医科大学付属医院同人会」が設立した。1913年(大正2年)2月より、予てから希望していた全国各地の病院・赤十字看護婦養成所の視察見学を開始した。また、入院患者数の増加に対応するため千葉県の了解を得て県債を発行し資金を確保し行った病院増改築が同年竣工するに至った。 この様な状況の中、1914年(大正3年)12月11日病気療養中であった荻生録造が逝去し、同月18日徳寛が第三代校長に就任した。
※この「帰国後、病院長就任」の解説は、「三輪徳寛」の解説の一部です。
「帰国後、病院長就任」を含む「三輪徳寛」の記事については、「三輪徳寛」の概要を参照ください。
- 帰国後、病院長就任のページへのリンク