帰国 - 日本での再開業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 14:45 UTC 版)
「高橋瑞子」の記事における「帰国 - 日本での再開業」の解説
翌1891年(明治24年)、瑞子は慣れないドイツの地での無理が祟り、病気を患って吐血した。先滞在費に加えて治療費で留学資金が尽き、重症のまま帰国した。一時は命すら危ぶまれ、佐々木東洋が「無事に帰国するのは難しいかも知れない」と危惧するほどの病状であった。ドイツの3人の医師が「ドイツでの回復は困難、航海中の無事も保証できないが、日本へ近づくのが良い」との判断での帰国であったが、帰国後は病状が奇跡的に回復した。この医師たちや、ベルリン大学への手引きをした下宿先の女主人への恩義を、瑞子は帰国後に以下の通り語った。 日本では頑健だったんだけれど、むこうじゃひとたまりもなかったってわけか、(略)どうせ印度洋あたりで水葬のつもりで、船に乗ったと思い、それがさ、死なないだけじゃない、どうしてか洋(うみ)の上で治って、神戸を元気で上陸したっての、元大工町に戻って見ると嘘のように何でもなかった、やっぱりあれは私に大望すぎたんだよ、それからはもうこの通りおとなしいのさ──、三先生を拝んでるよね、あの親切なおかみさんもね。 — 高橋瑞子、島本久恵「女医事始」、島本 1966, p. 88より引用 日本橋での再開業後は、ドイツ仕込みの腕前との評判により、医院の名声も高まり、同業者の間でも羨望の的となった。ベルリン滞在期間は、佐藤進や長井長義と比較すると非常に短期間だが、短期だからこそ、現地で得られるものを徹底的に得ようと努力していたようで、帰国から引退までに、産婦人科医および小児科医として、症例研究を扱って発表した論文が、後年にいくつか発見されている(後述)。当時、女医としての医学雑誌への投稿は、非常に珍しいことであった。 瑞子の医院には女性が勤めたことがあったが、夜道の往診で危険な目に遭った経験から、以後、瑞子は男性のみを内弟子に雇った。「男ならどこへ放り出しても大丈夫」との弁だった。女性はかえって世話が焼けるといい、「女は駄目だ」が口癖だった。男性たちは用心棒も兼ね、薬局や代診も手伝った。 当時の瑞子の経済状況については資料が確認されていないが、この数年後に吉岡彌生が開業したときの年収が2千円で、これが一流の地方病院に相当することから、瑞子の年収はその数倍と見られている。なお、当時の総理大臣の年俸が9600円の時代であった。
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