帰国・晩年(1947-1989)
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日本に帰国した大浦は、1947年(昭和22年)1月から1950年(昭和25年)2月まで、高松女子商業高等学校(現・高松中央高等学校)で校長を務めた。校長時代の1948年(昭和23年)11月には、香川県で開かれる初めての日本全国レベルのマラソン大会「第2回金栗賞朝日マラソン」(後に福岡国際マラソンとなる)が高松市で開催されるにあたり、審判長を務めた。1950年(昭和25年)3月31日からは高松第一高等学校の講師として教鞭を執り始め、1958年(昭和33年)4月1日からは同校非常勤講師となり同年9月30日まで務めた。また陸上競技関係では、香川陸上競技協会・香川スポーツ陸上競技連盟で顧問を務めたほか、香川タートル協会の会長(後に名誉会長)となるなど、長距離走の指導者として活動した。プライベートでは娘が嫁ぐのを見送った後、知人の勧めで中イシと再婚している。 1976年(昭和51年)に大浦は傘寿を迎えたが、開拓者精神を忘れず、英語に挑戦していた。この頃、大浦は通訳の試験を受けに大阪へ出向いたが、娘が付き添っていたため、担当者に娘が受験生で、大浦は付き添い人だと勘違いされた。また徳島県池田町(現・三好市)の白地温泉で開かれた「池田ジャンボーズ四国ゼミナール」という3泊4日の英語合宿に86歳にして参加した際には出席者一同を驚かせたというエピソードもある。 アントワープオリンピック日本代表で結成した「白黎会」の最後の生存者であった大浦は、1989年(平成元年)8月28日、93歳で逝去した。生涯に走りぬいた距離は、地球7周分に達した。
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帰国 - 晩年
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同1933年に、唯は同仁病院の閉鎖により、中国に見切りをつけて、静養も兼ねて日本へ帰国し、郷里の牛深で開業した。この牛深での診療科は眼科と産婦人科であり、産婦人科は眼科に加えて、当時の天草で特に必要とされていた医学であった。唯はここでも中国と同様、貧しい者には無償で接した。この牛深での開業時は、女医の珍しさと名声により、島の内外から患者が押し寄せたとの説と、逆に「初老の女医」との評判が良くなかったため、患者は滅多に来なかったとする説がある。豪商であった生家も、唯の誕生時には徐々に陰りが差し始めており、この当時にはすでに往時の賑わいはなかった。 翌1934年(昭和9年)に上京して、池上洗足町(後の東京都大田区南千束)に「中村眼科医院」を開業した。この医院は唯自身が「隠居仕事」とも呼ぶほど小規模のもので、1日の患者の人数はせいぜい1桁であった。カルテの枚数も9枚止まりのため、唯は怪談の皿屋敷を真似て、10枚に満たないカルテを「1枚、2枚……」と数え、「番町皿屋敷病院と改名しようかしら」と、冗談を飛ばして笑っていた。しかし医院の借家代50円に対して、天津の同仁病院の貸し賃として200円の収入があったため、生活に不自由することはなかった。北里柴三郎門下で赤痢菌発見で知られる志賀潔、癌研究所の稲田龍吉や、近隣の中国人留学生たちとの交友もあった。 還暦を迎えた後、長年にわたって医療活動にその身を費やしたことで体を病み、入院加療の身となった。東京での開業の翌々年、1936年(昭和11年)6月18日に池上洗足町の自宅で、稲田龍吉に看取られつつ、肝癌により63歳で死去した。東京で行われた葬儀には、吉岡彌生を始め、当代一流の医学者たちが参列し、志賀潔と漢学者の漆山又四郎が友人総代を務めた。遺骨は長崎県島原町で夫の常三郎と共に葬られた後、分骨が牛深小学校の近隣の山頂に、父と共に葬られた。 中国と深く関りをもった唯は、「日本と支那(中国)が戦争にならなければいいのに」と、日中の関係を最期まで憂いていたが、その願いも叶わずに日中戦争が開戦したのは、奇しくも死去の翌年のことであった。
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