帰国後 - 社長就任
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みちのくプロレスに出戻った後はメインをサスケたちの正規軍、デルフィン軍団、海援隊☆DXに譲り、時折ビッグマッチなどで絡む以外は通常の大会ではセミファイナル以下の試合でシングルマッチを続けた。 大仁田厚引退以降の新生FMWには継続参戦し、ハヤブサとのタッグではチームノーリスペクトのミスター雁之助&金村ゆきひろ組と、シングルでは雁之助との長期間にわたる抗争を続けた。 1997年7月17日、突如、全日本プロレスの試合会場(愛媛県西条市の西条市総合体育館)に現れ、ジャイアント馬場の前で合掌して参戦志願。それが認められ、同年7月25日のサマー・アクション・シリーズ最終、日本武道館大会に参戦。ジョニー・スミスと組んでの秋山準&馳浩戦で好ファイトを展開し、以降継続参戦していた。同年9月6日には、ハヤブサとのコンビで、タッグマッチではあるが小橋健太と対戦。ハヤブサ同様に、人生も小橋とは初対決であった。同年暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦では、ハヤブサと組んで出場。戦績は2勝7敗と振るわなかったものの、多くの好勝負を展開。中でも三沢光晴&秋山準組との試合では、あわや大金星と思わせた。 1998年5月1日の東京ドーム大会では、得意技であり代表的なパフォーマンス「拝み渡り」をジャイアント馬場相手に敢行した。その後の継続参戦中には、馬場や三沢、小橋らとタッグを結成したこともあった。小橋が初めてバーニングハンマーを三沢相手に繰り出した試合で、小橋のタッグパートナーを務めたのは新崎であった。 同年10月11日の愛知県体育館大会に於いて、三沢との初のシングル対戦。これ以降、継続参戦していく中で、小橋や秋山、田上明、更にはスタン・ハンセン、ベイダーやゲーリー・オブライト、ジョニー・エース等といった全日本参戦主要外国人選手とも、シングルで対戦を果たしている。この全日本プロレス継続参戦を経て、三沢や小橋、川田利明らとの親交が芽生え、これは三沢がプロレスリング・ノア旗揚げ後も継続した。2009年に三沢は他界したが、密葬には他団体所属ながらハヤブサとともに参列した。 2000年6月、全日本プロレスが分裂騒動に見舞われると選手の大量離脱によって人員が手薄になった7月シリーズに緊急参加し、7月23日の日本武道館大会ではセミファイナルでスティーブ・ウィリアムスと戦った。 2001年2月18日には白覆面の姿で新日本プロレスの武藤敬司対村上一成戦の最中に登場。武藤が勝利した後リングインし、武藤やセコンドの太陽ケアと握手した後マスクを取り正体を明かし、以降BATTの一員として武藤らと共闘していった。また、武藤扮する黒使無双とは白使としてタッグを組み、拝み渡りを同時に披露するなどのパフォーマンスを見せた。 2003年6月、みちのくプロレス社長で創設者のザ・グレート・サスケの後を引き継ぎ、社長に就任(サスケは代表権のない取締役会長に就任)。このときみちプロは人気選手の離脱による観客減少に苦しんでいたが、フリー選手中心の試合編成を見直し、サスケ、人生などのみちプロ所属選手に遮那王やロス・サルセロス・ハポネセスなどの闘龍門X出身の若手を加えた若返り策を採用。 2006年からは、みちのくプロレス女子プロレス部であるセンダイガールズプロレスリングを旗揚げ。 2009年8月31日、株式会社みちのくプロレスの代表取締役社長にサスケが復帰することとなり、新崎はコミッショナーに就任。センダイガールズ代表職、みちのくエンタテイメント社長職(センダイガールズ運営)は変わらず。新事業開拓にも注力している。 2010年3月9日、仙台市泉区にて、自身のプロデュースによる徳島ラーメン専門店「徳島ラーメン人生」を開店。さらには国分町に肉汁うどんとカレーうどんの店「まるじん」を、多賀城市には肉汁つけうどんの店「人生」もオープンさせた。 2011年7月、センダイガールズ代表職を退任(後任は選手代表の里村明衣子)。試合会場にはよく登場する。 2013年3月3日、故郷徳島でデビュー20周年記念大会を開催。6月30日、第二の故郷仙台でデビュー20周年記念大会を行った。 2015年、センダイガールズのタイトル創設に合わせてコミッショナー就任。 2019年2月19日、『ジャイアント馬場没後20年追善興行』第6試合に出場。
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