呉羽紡績以降とは? わかりやすく解説

呉羽紡績以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 05:09 UTC 版)

宇野収」の記事における「呉羽紡績以降」の解説

その後義父友人紹介大建産業入社し貿易課を経て関連会社監督する事業課に異動し河本嘉久蔵同僚になっている1949年過度経済力集中排除法会社分割されると、海軍時代工場担当した経験からメーカーへの興味強かったため呉羽紡績東洋紡前身)に移籍した綿糸加工委託担当時に商品横流しされていたのに気づかず1億円近い損害出したこともあったが、1953年ニューヨーク駐在勤務を命ぜられている。1年余りにわたって単身赴任しながら市場調査行ない帰国後は輸出中心とした繊維営業部門に配属された。1958年生地染色などを担当する加工綿布課長となった頃から仕事面白くなり、7人ほどの課員家族のように過ごしたという。なお、当時部下橋本龍太郎がいた。 織物部長となっていた1966年会社東洋紡績合併し加工品輸出副部長となった。さらに半年後に商品開発部長を経て1968年新設化成品事業部となっている。同事業部では社内初となる本格的な繊維事業を手がけ、ポリプロピレンフィルムなどを事業化した。成熟産業となった繊維部門が低迷する一方でフィルム事業急激に成長し1972年取締役就任常務専務副社長経て1978年には社長に昇格するという急速な出世をしたが、役員時代にはオイルショックがあり、対策として事業の多角化検討したものの具体化に至らなかった。 社長就任時には2期4年務めて茶谷周次郎交代する方針まとまっており、黒字転換復配達成した後の1983年会長退いた谷が関西経済同友会代表幹事務めて多忙だったため、社長交代予定より1年遅くなったという。まもなく河崎邦夫から打診受けて関経連副会長の座を継ぎ任期後半2年間は関西文化学術研究都市建設のため建設特別法制定などに尽力した1987年日向方齊から指名され後任関経連会長となり、「関西活性化」というスローガン掲げた。そのために国家プロジェクト関西地方誘致することを目指し7年間の任期中に822件、事業費にして計41兆円のプロジェクト生まれている。また、関西への遷都なども繰り返し提言し道州制導入なども訴えている。 1990年発足した第3次行革審では会長代理務め最終答申とりまとめに関わった。また1990年には東洋紡ローヌ・プーラン合弁事業関経連としての日仏交流評価されレジオンドヌール勲章オフィシエ章を授与されている。また、1991年には勲一等瑞宝章受章した1994年後任関経連会長川上哲郎指名して退任したが、本命視されていた小林庄一郎を選ばなかったため反響呼んだ。これについては規制緩和などに取り組むためには電力会社小林難しいと考えた事などが理由だったと語り一方で自身就任当初から小林後継者として予定していたとも述べている。2000年11月12日胆管癌のため逝去

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