新生FMW
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「フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング」の記事における「新生FMW」の解説
大仁田は引退後、社長を退任しFMWと無関係になった。新たに運営会社が設立され、社長には旗揚げ当時リングアナウンサーで、関連子会社「FMWクリエイティブ」の取締役広報部長だった荒井昌一が就任した。この時営業の高橋英樹部長と荒井昌一のどちらかを新社長にしようとし高橋はすぐに断り荒井が手を挙げた。新会社の株の割合は、大仁田が53%、荒井が47%だった。「大仁田がいなければFMWは3ヶ月で潰れる」というような声をよそに大仁田の引退後もFMWは持ちこたえた。1995年5月28日、後楽園ホール大会を皮切りにハヤブサを中心に金村ゆきひろ、田中正人、工藤めぐみ、ザ・グラジエーターらの若い力がリングに活力を蘇らせ、大仁田体制の胡散臭さや怪しさを押し出したスタイルとは異なる、後にハードコアスタイルと呼ばれる激しい戦いが高い支持を得た。ハヤブサが腕を負傷して半年間の欠場の間も金村と田中のライバルストーリーがファンの支持を得て、リング上のパワーは落ちなかった。1996年5月5日、ハヤブサ&田中組対テリー・ファンク&ポーゴ組をメインイベントに川崎球場大会のビッグマッチを成功。 しかし、もう1度スポットライトを浴びたいと願う大仁田は復帰を画策。ポーゴを引退させてポーゴの最後の願いとして大仁田とのタッグ結成をファンに乞うというアングルで、1996年12月11日、駒沢オリンピック公園体育館大会で強引に復帰。この頃からハヤブサ、金村、田中ら若い世代へ期待する路線と創始者の大仁田への回帰路線という2つの方向性がリング上に生まれてFMWは混乱し始めた。大仁田が突然、ZENという団体内団体を旗揚げしたのも、2つの方向性を両立させようとする当時のFMWフロントの苦心の結果である。また経営陣と大仁田の間には大仁田の給料を巡って金銭トラブルが多発していたとされる。 この頃、WARを退団した冬木弘道、邪道、外道が参戦して金村、雁之助らとユニット「チーム・ノーリスペクト」を結成してFMWの歴史上でも最も存在感の大きなヒール軍になった。 なお荒井体制の新生FMWは登記上「エンターテイメントプロレスリングFMW」とされており大仁田体制の「フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング」とは別会社扱いとなっている。
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