新生UWF、インディーズの台頭と中継の転機
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「プロレス中継」の記事における「新生UWF、インディーズの台頭と中継の転機」の解説
1988年、一度崩壊したUWFが2年のブランクを置いて再び発足(通称、新生UWF)。所属選手達は2年間、新日本に出戻っており、衝撃的な試合を披露したことで、UWFスタイルの格闘技が注目されていた。そのため、旗揚げ戦のチケットは数十分で完売。月1回しか興行は打たないものの、その興行収入とスポンサー収入で団体の資金は十分賄えており、テレビ中継も無かったが1989年には東京ドームで興行を打つまでになった。このことがプロレス団体にとってテレビの放映権料に頼らずとも団体運営が可能なことを見せ付ける大きな結果となった。そのUWFも後に、創成期のBS放送チャンネル、WOWOWとの間で、独占中継契約の締結に成功したが、中継開始直前に内部の不協和音から団体が崩壊。しかし、3つに分裂した後継団体を含め、これらの事項により「非TV中継」、「主要キー局以外との放送契約」という、プロレス界・格闘技界に新たな一ページを刻むことになった(因みにWOWOWは、前田の後継団体「リングス」と契約し、2002年まで中継放送を続けたほか、WOWOWもリングスをキラーコンテンツとしてアピールしていたことから、リングス側も世界規模のネットワーク構想等を形にすることが出来、後のHERO'Sの礎につながってゆくこととなった)。 1990年代になると、世間では既にバブルは崩壊へと向かっていたが、プロレス界のバブルはこの時代から隆盛を迎えることとなった。まず全日本から二枚看板の一人、天龍源一郎が引き抜かれ、メガネスーパーがスポンサーとなって設立されたSWSは、その資金力をバックに、それまでのプロレス界では考えられなかった演出や高額年俸などで話題となった。このSWSの旗揚げ戦はテレビ東京のゴールデン枠で放送され、木村匡也がディスクジョッキー風に実況を展開するという一風変わった中継を行っていた(同局は団体後期についても、月一限定で半年間中継を放送した)。これらの演出は当時、「派手」「時代を先取りしすぎ」との批判が多く、またSWS自体も一部マスコミから「金権プロレス」などと大々的に叩かれ、結局内部闘争などもあり呆気なく団体崩壊の憂き目になってしまうこととなった。 一時は第三勢力とも見られた新生UWFやSWSがあっさりと崩壊していくなか、意外な健闘を見せたのが、「馬場の方」でも「猪木の方」でもないインディペンデント、即ちインディーズ団体である。その最大の団体が、1989年に誕生したFMWであった。全日本プロレスで引退後、フリーランスのレスラーとして細々と活動していた大仁田厚が設立したこの団体は、新生UWFの逆方向を行き、それまでの日本のプロレス団体では憚られた電流爆破などの過激なデスマッチを売り物にした。同時に「俺たちはこんな生き方しか出来ない、それでも俺たちはプロレスをやりたい」といった、弱小であるがゆえの一生懸命さを訴えかけることで、ファンのハートを掴んでいった。こうしたインディーズ団体は、規模や知名度のマイナーさ(および放送を躊躇うほどの過激さ)などから定期的なテレビ中継はおろか、テレビで取り上げることさえも難しいものがあったが、一方では今までにない形式が興味を呼び、いわゆる「口コミ」などで確実に固定客を獲得していく。FMWの場合、中継がないのを補うかのように、大仁田が一般メディアやテレビのバラエティ番組に積極的に登場し、顔を売りまくったのも大きかった。その甲斐あって、FMWは川崎球場などの大会場での興行を行うまでに成長、そして大仁田は、一般の知名度だけなら、馬場や猪木と肩を並べるくらいになっていた(一般のメディアに数多く露出して知名度を高めるという手法は、新生UWF当時の前田日明が既に試みていたものだったが、大仁田ほどに媒体を選ばずに際限なく露出することはなかった)。 新生UWFによって切り崩された「テレビ中継が不可欠」というある種の法則は、FMWの成功で覆される形となり、そうした成功例に刺激され、テレビ中継に頼らない団体経営が当たり前の様に行われるようになった。かくして以降は、小規模な団体が旗揚げしては崩壊、旗揚げしては崩壊を繰り返すこととなっていく。 (因みに「中継」という形ではないが、1990年代中期、テレビ東京のスポーツニュース番組「激生!スポーツTODAY」では、週1回「バトルウィークリー」というコーナーを設けていた。独占契約のあるメジャー団体を除いた、プロレス界や格闘技界の1週間の動きを追うというもので、ここでもインディーズ団体を積極的に取り上げていた。) 一方メジャー団体の新日本と全日本もテレビ主導ではない、現場主導の全盛期を迎えていた。既に両団体共に放送枠は深夜に移っており、視聴率や放映権料などの面で全盛期の後塵を拝する状態とはなっていたが、新日本は闘魂三銃士の活躍により東京ドームを始めとする全国のドーム会場で大会を開き、常に5万人以上の観客動員を集めるようになり、全日本は馬場の堅実経営もあってドーム会場での興行は控えたものの、プロレス四天王が空前の人気を獲得しており、年間7回開催の日本武道館大会は全て超満員札止めを記録するようになっていた。また通常のプロレス中継こそ深夜帯であったが、1990年代の新日本ドーム大会などはスペシャル番組としてゴールデン枠で放送されており、特に小川直也vs橋本真也の一戦は、「橋本真也負けたら即引退」等の煽り文句を付けるなど、賛否を呼ぶ内容ではあったが、視聴率25%を獲得するほどであり、数字だけ見れば1980年代の黄金時代以来の注目度となった。しかし深夜帯のレギュラー放送は、1994年4月から全日本プロレスの放送時間が1時間から30分に短縮されて「全日本プロレス中継30」となるなど、目に見えて冷遇されていくようになる。 そんななか最大のインディーズ団体「FMW」は、大仁田の退団によりエンタメ路線への大幅な軌道修正を行ったこともあり、1998年より当時日本で展開を始めたばかりのCS放送チャンネル、ディレクTVと「3年3億円」の放映契約を締結。横浜アリーナ等の大規模会場で興行を行うほか、AV女優までリングに上げてしまうという、まさにショープロレス路線を突き進んだが、ファンの支持を得ることが出来ず、迷走が始まる。迷走は歯止めがかからず、2000年にディレクTVがSKY PerfecTV!と事実上統合されると、放映権料は大幅に下落。団体は倒産し、荒井昌一社長が自殺するという最悪の結末を迎えた。
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