1990年代中期
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「日本におけるゲーム機戦争」の記事における「1990年代中期」の解説
1991年、任天堂はソニーと共同でSFC用CD-ROMの開発を開始、同時にソニーもCD-ROM一体型SFC互換機の発売を発表した。その名称は「PlayStation」。しかし次第に両社の意見が合わなくなり、任天堂のフィリップスとの突然の提携発表という一方的な破棄によって共同開発は中止された。 ソニー側はこのままゲーム機から引き上げずにソニーの関連会社としてSCEを発足、1994年に32bit機であるPlayStation (PS) を発売した。前述の任天堂との共同開発版と名称が同じだが、関連性はない。ほぼ同時期にセガも32bit機セガサターン (SS) を発売した。また、北米で高い市場シェアを誇った16bitゲーム機のメガドライブをPS、SSと同じ32bit機にパワーアップさせる周辺機器スーパー32Xをセガサターン発売後に日本でも発売した。また、この頃には後述のように他にも多数のゲーム機が近い時期に相次いで登場している。そんな中、SCE宣伝部長佐伯雅司の考案したPSとSSを中心とする「次世代ゲーム機戦争」という構図がメディアで取りあげられるようになった。発売前後の1994年ごろの雑誌ではPSとSSのほか3DO、PC-FX、(後の)N64、場合によってはバーチャルボーイなども巻き込む形で盛り上がりを見せはじめていた。しかし始まってみれば目論見通りPSとSSの2機種に人気が集中し、両者の初期のシェア争いは熾烈を極め、雑誌等のメディアでも次世代機競争としてPS対SSの構図が注目を集める形になっていった(なお、ゲーム機の「世代」という概念はその後も機種を問わず広く用いられている)。32XはSSとPSが普及したことで短期間で生産を中止した。 PSとSSは共に32bitCPUでCD-ROMドライブを持っていたが、PSは3Dに特化したハード構成で、SSは2D性能に秀でていた。PSはこの大容量と3D性能の高さを併せ持っていたことが評価され、『鉄拳』、『バイオハザード』などのヒット作が続々とリリースされた。1996年にスクウェア(当時)がFFシリーズ初の3DRPGである『ファイナルファンタジーVII』 (FFVII) をPlayStation用ソフトとして発売することを発表すると販売台数が飛躍的に伸びていき、セガサターンに大差をつけた。SFCのカセットが当時10,000円前後と高価格化していた中、PSはソフトの価格を平均6,000円で発売していたことも支持された。メディアにCD-ROMを採用したことでROMカートリッジに比べてソフトの価格を大きく下げることに成功した。従来の初心会中心の任天堂主導のゲーム流通にも斬り込んで流通改革も試み、任天堂流通に不満を持ちコンビニエンスストアでゲーム流通を行うためデジキューブを設立したスクウェアの取り込みにも繋がった。セガも同様に任天堂流通に不満を持っており、SS発売の際に独自の流通体制を整備することでSSを扱う小売店の数を拡大させたが、親会社のCD-ROM生産設備を利用できたSCEと異なり、CD-ROMの特性を生かした柔軟な生産調整を行うことはできなかった。1997年からセガはSCEの流通改革を模倣して小売店への直販化・直送化を推し進めていった。一方、スクウェア以外の有力ソフトメーカー各社もこの時代にゲームソフトの自主流通を行い始め、任天堂をはじめとして流通機構における各プラットフォームホルダーの支配力を削いでいった。 SFCで圧倒的シェアを持っていた任天堂は、PSやSSが登場した頃にはまだ後継機を出さず、1995年に据置き使用のゲーム玩具バーチャルボーイ(後述)を発売するにとどまった。これは「テレビゲーム機」ではなくゲームボーイと同様の「ゲーム玩具」類だったが、日本ではおおむねSFCの後継機までの「つなぎ」と受け止められ、当時の次世代ゲーム機競争の報道にしばしば名を連ねた。そしてSSやPSに遅れて2年後、1996年に64bit機であるNINTENDO64 (N64) を発売した。N64はPSやSSより高性能で4人対戦が可能だった。SFC同様に単価が高く容量の少ないROMカートリッジを採用し、少数精鋭主義のセカンドパーティー構想を標榜していたが、これは結果的に前述のコンビニ流通のためCD-ROMの採用を望むスクウェアの離反を招き、ファミコンやSFCでキラーソフトだったドラゴンクエストシリーズとファイナルファンタジーシリーズがPSへ流出し、日本国内では伸び悩んだ。しかし、欧米では好調に売り上げを伸ばした。 1999年にはN64用の周辺機器64DDを発売させるが時すでに遅く、人気シリーズを移籍させた最終的にPSがトップシェアとなった。 これらに先行してパナソニック、三洋電機等からは3DOが、SNKからネオジオCDが発売されていたほか、NECからはPCエンジンの流れを汲んだPC-FXも登場し、当時の次世代ゲーム機競争の話題を彩った。しかしPC-FXは動画再生に特化した性能のため当時のゲーム業界の流れだった3D化の流れから外れ、「1995年内に50万台以上普及させる」という目標も達成できなかった。3D対応機能は後にPC-FXGAに搭載されたが劣勢を覆すことはできず、PC-FXシリーズは3DOに次いで短命に終わった。1998年、NECグループは家庭用ゲーム機業界から撤退することになった。奇しくも同じ年にはセガも次世代機ドリームキャストを発表してそちらに軸足を移しはじめており、この世代の競争はPSの優位で幕を閉じた。 3DO REAL(Panasonic FZ-1) ネオジオCD 3DO TRY(Sanyo IMP-21J) 3DO REAL II(Panasonic FZ-10) セガサターン スーパー32X PlayStation PC-FX ネオジオCD-Z セガサターン(後期型) NINTENDO64 64DD PS one
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1990年代中期(携帯型)
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「日本におけるゲーム機戦争」の記事における「1990年代中期(携帯型)」の解説
任天堂が1994年6月に携帯機のゲームボーイソフトが据え置き機のスーパーファミコンでもプレイ出来る周辺機器スーパーゲームボーイを発売。1998年には通信端子を搭載したスーパーゲームボーイ2が発売された。GGはこの時期に販売を終了し、GBも新作ソフトが月に数本程度しか出ない状況が続いたが、1996年のGB用ソフト『ポケットモンスター 赤・緑』が登場。当初はあまり注目されなかったものの、携帯型ゲーム機ならではの特性を活かしたこのソフトは世界規模で大ヒットを記録した。同年に発売されたゲームボーイポケット (GBP) とそれに支えられる形で、携帯型ゲーム機市場は再活性化された。1998年にゲームボーイライト (GBL) が発売された。 ゲームボーイの派生ハードとして、1995年に任天堂は史上初の完全3D映像のゲーム玩具バーチャルボーイも発売している。これは乾電池で駆動でき、表示装置を内蔵するなど携帯機の特徴を備えているが、コントローラが外付けであるなど使用時は据置きする場所が必要になるもので、結局、商業的失敗に終わった。 スーパーゲームボーイ スーパーゲームボーイ2 ゲームボーイポケット ゲームボーイライト バーチャルボーイ
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