1990年代中期とは? わかりやすく解説

1990年代中期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:40 UTC 版)

日本におけるゲーム機戦争」の記事における「1990年代中期」の解説

1991年任天堂ソニー共同SFCCD-ROM開発開始同時にソニーCD-ROM一体型SFC互換機発売発表した。その名称は「PlayStation」。しかし次第両社意見が合わなくなり任天堂フィリップスとの突然の提携発表という一方的な破棄によって共同開発中止された。 ソニー側このままゲーム機から引き上げずソニー関連会社としてSCE発足1994年32bit機であるPlayStation (PS) を発売した前述任天堂との共同開発版と名称が同じだが、関連性はない。ほぼ同時期にセガ32bitセガサターン (SS) を発売したまた、北米で高い市場シェア誇った16bitゲーム機メガドライブPSSSと同じ32bit機にパワーアップさせる周辺機器スーパー32Xセガサターン発売後に日本でも発売したまた、この頃には後述のように他にも多数ゲーム機が近い時期相次いで登場している。そんな中SCE宣伝部佐伯雅司の考案したPSSS中心とする「次世代ゲーム機戦争」という構図メディアで取りあげられるようになった発売前後1994年ごろの雑誌ではPSSSのほか3DOPC-FX、(後の)N64場合によってはバーチャルボーイなども巻き込む形で盛り上がり見せはじめていた。しかし始まってみれば目論見通りPSSSの2機種人気集中し両者初期シェア争い熾烈極め雑誌等メディアで次世代競争としてPSSS構図注目を集めるになっていった(なお、ゲーム機の「世代」という概念その後機種問わず広く用いられている)。32XはSSPS普及したことで短期間生産中止したPSSSは共に32bitCPUCD-ROMドライブ持っていたが、PS3Dに特化したハード構成で、SS2D性能秀でていた。PSはこの大容量3D性能の高さを併せ持っていたことが評価され、『鉄拳』、『バイオハザード』などのヒット作続々リリースされた。1996年スクウェア当時)がFFシリーズ初の3DRPGである『ファイナルファンタジーVII』 (FFVII) をPlayStation用ソフトとして発売することを発表する販売台数飛躍的に伸びていき、セガサターン大差をつけた。SFCカセット当時10,000前後高価格化していた中、PSはソフトの価格平均6,000円で発売していたことも支持された。メディアCD-ROM採用したことでROMカートリッジ比べてソフトの価格大きく下げることに成功した従来初心会中心任天堂主導ゲーム流通にも斬り込んで流通改革試み任天堂流通に不満を持ちコンビニエンスストアゲーム流通を行うためデジキューブ設立したスクウェア取り込みにも繋がったセガ同様に任天堂流通に不満を持っており、SS発売の際に独自の流通体制整備することでSSを扱う小売店の数を拡大させたが、親会社CD-ROM生産設備利用できたSCE異なりCD-ROM特性生かした柔軟な生産調整を行うことはできなかった。1997年からセガSCE流通改革模倣して小売店への直販化・直送化を推し進めていった。一方スクウェア以外の有力ソフトメーカー各社もこの時代ゲームソフト自主流通行い始め任天堂はじめとして流通機構における各プラットフォームホルダー支配力を削いでいった。 SFC圧倒的シェア持っていた任天堂は、PSSS登場した頃にはまだ後継機出さず1995年据置き使用ゲーム玩具バーチャルボーイ後述)を発売するとどまった。これは「テレビゲーム機ではなくゲームボーイ同様のゲーム玩具」類だったが、日本ではおおむねSFC後継機までの「つなぎ」と受け止められ当時次世代ゲーム機競争報道にしばしば名を連ねた。そしてSSPS遅れて2年後1996年64bit機であるNINTENDO64 (N64) を発売したN64PSSSより高性能4人対戦可能だったSFC同様に単価高く容量少なROMカートリッジ採用し少数精鋭主義セカンドパーティー構想標榜していたが、これは結果的に前述コンビニ流通のためCD-ROM採用を望むスクウェア離反招きファミコンSFCキラーソフトだったドラゴンクエストシリーズファイナルファンタジーシリーズPS流出し日本国内では伸び悩んだ。しかし、欧米では好調に売り上げ伸ばした1999年にはN64用の周辺機器64DD発売させるが時すでに遅く人気シリーズ移籍させた最終的にPSがトップシェアとなった。 これらに先行してパナソニック三洋電機等からは3DOが、SNKからネオジオCD発売されていたほか、NECからはPCエンジン流れ汲んだPC-FX登場し当時次世代ゲーム機競争話題彩った。しかしPC-FX動画再生特化した性能のため当時ゲーム業界流れだった3D化の流れから外れ、「1995年内に50台以上普及させる」という目標達成できなかった。3D対応機能は後にPC-FXGA搭載されたが劣勢覆すことはできず、PC-FXシリーズ3DO次いで短命に終わった1998年NECグループ家庭用ゲーム機業界から撤退することになった奇しくも同じ年にはセガ次世代ドリームキャスト発表してそちらに軸足移しはじめており、この世代の競争PS優位幕を閉じた3DO REAL(Panasonic FZ-1) ネオジオCD 3DO TRY(Sanyo IMP-21J) 3DO REAL II(Panasonic FZ-10) セガサターン スーパー32X PlayStation PC-FX ネオジオCD-Z セガサターン(後期型) NINTENDO64 64DD PS one

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1990年代中期(携帯型)

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日本におけるゲーム機戦争」の記事における「1990年代中期(携帯型)」の解説

任天堂1994年6月携帯機のゲームボーイソフトが据え置き機スーパーファミコンでもプレイ出来周辺機器スーパーゲームボーイ発売1998年には通信端子搭載したスーパーゲームボーイ2発売された。GGはこの時期販売終了しGB新作ソフトが月に数本程度しか出ない状況続いたが、1996年GB用ソフト『ポケットモンスター 赤・緑』が登場当初はあまり注目されなかったものの、携帯型ゲーム機ならではの特性活かしたこのソフトは世界規模大ヒット記録した同年発売されゲームボーイポケット (GBP) とそれに支えられる形で、携帯型ゲーム機市場再活性化された。1998年ゲームボーイライト (GBL) が発売された。 ゲームボーイ派生ハードとして、1995年任天堂史上初の完全3D映像ゲーム玩具バーチャルボーイ発売している。これは乾電池駆動でき、表示装置内蔵するなど携帯機特徴備えているが、コントローラ外付けであるなど使用時据置きする場所が必要になるもので、結局商業的失敗終わったスーパーゲームボーイ スーパーゲームボーイ2 ゲームボーイポケット ゲームボーイライト バーチャルボーイ

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