1990年代、ブラーでのブレイク
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「デーモン・アルバーン」の記事における「1990年代、ブラーでのブレイク」の解説
1991年のファーストアルバム『レジャー』では早くも全英7位を獲得するなど、イギリスではとんとん拍子で成功を収めるも、その後のアメリカ進出には失敗。この経験から、イギリス的なものにバンドのアイデンティティを強く求めるようになり、アメリカ発のグランジブーム吹き荒れるイギリスのチャートシーンにおいて、レコード会社の反対を押し切り、敢えてブリティッシュ・ロックの伝統を踏襲したアルバム、『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』を発表する。当時の流行には乗らなかったため、セールス的には振るわなかったものの、作品そのものは高い評価を獲得した。アルバム製作時、デーモンは英国的な音楽の流行が訪れることを予見していたが、その通りに1993年ごろからイギリス的な音楽は徐々に国内で盛り上がりを増しつつあった。 1994年発表のアルバム『パークライフ』、1995年発売の『ザ・グレイト・エスケープ』で、英国的音楽のムーブメントは最高潮に達して「ブリットポップ」ブームが沸き起こり、デーモンは一躍シーンの中心人物となる。クラシックの素養を感じさせるポップな音楽性と三人称を主語としたシニカルで物語風の作詞技法、派手なライブパフォーマンス、愛用のフレッド・ペリーのポロシャツや、アディダスやナイキを小奇麗に着こなすモッズ風のファッションから、「ネオ・モッズ」のアイコンとして人気を博し、その甘いルックスから、当時日本でもファッション雑誌の特集にも多く登場していた。 デーモン自身も当時は「ポップな人」をキーワードに自身のアイデンティティを追求していったが、ブラーより少し遅れてブレイクをしたオアシスとの対立や、マスコミの執拗な狂騒からパニック障害を患うなど、精神的に疲弊をきたしてまう。ローファイな音楽志向であったグレアムとも、あまりにもポップになったブラーの音楽性を巡って、対立するようにもなる。 しかしその後、アイスランドのレイキャビークに家を買ってブリットポップ狂騒から離れ、疎遠状態にあったグレアムと手紙をやり取りをしてお互いの仲を取り戻しつつ、今後のバンドの方向性を確かめあった。またこの頃からアメリカのオルタナティブ・ロックやヒップホップ・シーンにも接近するようになる。そして1997年発表の商業的自殺と呼ばれたアルバム『ブラー』では「ブリットポップは死んだ」との発言とともに、アメリカのオルタナティヴ・ロックの影響を背景とした、それまでのポップなブラーのイメージをかなぐり捨てるような実験的で野心的な作品を発表。新たなファンを獲得し、この作品によってデーモンはアーティスティックな面でも正当に評価されるようになる。 「英国的なもの」にこだわらなくなったデーモンは、この後活動の幅を飛躍的に広げるようになり、1998年、長年のガールフレンドだったエラスティカのジャスティーン・フリッシュマンとの別れの後にフラットで共同生活をしていたコミック・アーティストのジェイミー・ヒューレットと、既存の商業音楽のアンチテーゼとして覆面カートゥーン・バンド、ゴリラズのプロジェクトを立ち上げ、様々なジャンルの曲を実験的にレコーディングした。1996年にすでに映画『トレインスポッティング』に個人名義で1曲を提供していたが、1999年には映画『ラビナス』で現代音楽の巨匠マイケル・ナイマンと映画音楽のサウンドトラック・アルバムを作り、グレアムに少し遅れてソロキャリアをスタート。2000年には『私が愛したギャングスター』、2001年には『101レイキャビーク』でも映画音楽を作っている。 また、かつて役者を目指していたこともあり、1997年にはロバート・カーライル出演の映画『フェイス』に出演を果たす。デーモン本人はあまりその出来に納得しておらず、自分は第一にミュージシャンとの自覚もあり、それ以降も出演のオファーが来ていたが断っている。
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