1990年代の銀行の不良債権問題
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「不良債権」の記事における「1990年代の銀行の不良債権問題」の解説
金融再生法による不良債権比率平成14年平成20年平成25年令和2年主要行 8.4% 1.4% 1.7% 0.6% 地方銀行 7.7% 3.7% 2.9% 1.7% 第二地方銀行 9.0% 4.4% 3.8% 1.9% 信用金庫 10.1% 6.4% 6.4% 3.5% 信用組合 12.7% 10.3% 8.4% 3.2% 預金取扱金融機関の総計 10.6% 3.0% 2.9% 1.4% 「失われた10年」も参照 通常であれば、銀行は融資の際に不動産などの担保を取るため、貸し倒れが起こっても担保を回収することで損失は出さずに済む。 しかし日本では、バブル景気時代に高騰した不動産を担保にとり甘い融資が行われた。通常は土地評価額の70%を目安に融資額を設定するが、今後の地価の高騰を見越して120%を融資した例や、融資を優先するあまり、抵当権の順位が下位でも担保を設定して貸し付けるなどの行為も行われた。 バブル崩壊後には融資先が事業に失敗して融資の回収ができず、さらに、担保の不動産は暴落して融資額を下回り、下位の抵当権で担保を設定した金融機関は、融資回収も担保も取れない、という状況が相次いた。こうして回収が不可能になった債権によって日本の銀行各行は深刻な経営危機に陥った。 債権を審査する基準を甘くして、本来不良債権とするべき物件を正常債権と区分したり、所定の返済に必要な資金を追い貸しして不良債権ではなく正常債権とみなす操作を行うなど、不良債権総額を低く見せて経営状態を取り繕ろう行為も横行した。 バブル崩壊後の不景気、信用収縮(クレジット・クランチ)の中で、これらの行為や疑いが広く報道され、金融不安を助長した。政府は当初、護送船団方式を取り、金融機関は潰さないと表明していた。 しかし1995年頃より、これらの問題を解決するため「市場から退場すべき企業は退場させる」姿勢に転じ、債権の審査を厳しくして不良債権の隠蔽を認めず、また、不良債権に対する貸倒引当金の積み増しを要求した。そして、不良債権が過大となって実質債務超過に陥った金融機関を処理した。まず、兵庫銀行が銀行として戦後初めて倒産し、更には北海道拓殖銀行のような都市銀行や、日本長期信用銀行・日本債券信用銀行のような長期信用銀行まで破綻する事態となった。破綻を逃れた他の大手銀行も、国から大規模な公的資金注入を受けてその場をしのぐ有様となった。 こうして銀行の体力が奪われたことは、バブル崩壊後の日本経済を再建する上で大きな足枷となった。銀行は融資に対して過度に慎重となり、中小企業に対する貸し渋りや貸し剥がしといった現象も目立つようになった。このため不景気に加えて、資金調達が困難となったために、新規事業の立ち上げが困難になったばかりでなく、融資を受けられないことによる倒産、さらには倒産が倒産を呼ぶ連鎖倒産、失業率上昇、中高年の自殺者も急増し、深刻な社会問題となった。 しかし、小渕内閣の下で行われた大規模な公的資金の投入によって、こうした信用収縮は収束した。それでも景気悪化もあり、不良債権は増加を続け、金融庁によれば全国銀行の金融再生法開示債権残高は平成14年3月末には43.2兆円に達していた。 銀行への資本注入のための公的資金枠は、1999年12月には70兆円にまで積み増すことが決定された。
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