FMW参戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 09:59 UTC 版)
1990年6月、新興団体FMWを立ち上げた大仁田厚に誘われて国内復帰。世界ブラスナックル王座を巡って流血の抗争を繰り広げ、ターザン後藤と並ぶ大仁田のライバルの地位に収まるかに見えたが、ポーゴの流転癖は直っていなかった。 1991年、内紛からFMWより分裂したW★INGに移り、松永光弘らの若手を率いて過激なデスマッチ路線を推進する。オリジナルの火炎噴射を使い出したのもこの頃。しかしW★INGから1993年に単身離脱し、FMWにUターン。火炎噴射に加え、鎖鎌で相手を切り刻んだり、チェーンで首吊りにするなど、凶器を用いたヒール殺法に磨きがかかった。 W★INGの崩壊によって、松永光弘、金村ゆきひろ(現・金村キンタロー)らもFMWに参戦するようになったため、W★ING同盟並びにヒール養成機関『むじなの穴(目)』を結成。賞金マッチを巡る瑣末なストーリー展開がプロレス誌を賑わした。 大仁田の引退後、新生FMWのエース格としてデスマッチ路線を牽引し、有刺鉄線ファイヤーバットで女子部の里美和を殴ったりして話題を提供したが、「大仁田以上に燃えられる相手がいない」という理由から1995年10月に突如フリー宣言。(実際はFMW所属だった。)WAR、みちのくプロレス、IWAジャパンなど各インディー団体を股にかけて活動した。 1996年、大仁田が復帰する為のストーリーラインとして膝の悪化を理由に引退を宣言。引退試合の相手は大仁田が復帰して務め、ポーゴのキャラクターを五所川原吾作に譲ったが、翌年本人がカムバックしたため、五所川原のリングネームが迷走する原因を作る。その後は大日本プロレスなどに参戦し、BJW認定デスマッチヘビー級王座の初代王者に輝いた。
※この「FMW参戦後」の解説は、「ミスター・ポーゴ」の解説の一部です。
「FMW参戦後」を含む「ミスター・ポーゴ」の記事については、「ミスター・ポーゴ」の概要を参照ください。
- FMW参戦後のページへのリンク