FMW参戦までとは? わかりやすく解説

FMW参戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 09:59 UTC 版)

ミスター・ポーゴ」の記事における「FMW参戦まで」の解説

地元名士で、群馬県議会議員6期議長まで務めた関川三郎末子坊ちゃん扱いされて育った恵まれた体躯活かして小学3年から柔道習い伊勢崎工高から中央大学法学部スポーツ推薦進学ジャンボ鶴田同期したものの、勉学柔道部厳し練習付いて行けず、更に父の急逝ショックを受け、1年中退。 父の没後周囲の人間の手の平を返したような態度絶望し、「腕っ節だけで成り上がってやる」という思い強め亡父後援者仲介大相撲二所ノ関部屋入門し四股名関川1971年7月場所初土俵番付載った9月場所では序ノ口優勝したが、ひざの故障により廃業した最高位は、序二段24目。 その後プロレス志望転じ中学同級生浜田広秋(後のグラン浜田と共に旗揚げ間近新日本プロレス出向いたところ、選手コマ不足から即時入門許された。 1972年3月20日足立体育館藤波辰巳戦でデビューしたものの、山本小鉄から疎まれ知らない間に解雇されていて旗揚げの1シリーズのみで退団した。 翌1973年ロッキー青木憧れて単身渡米し、動き少なく殴る蹴る中心喧嘩風ショーマン・スタイルを習得カルロス・コロンビクター・キニョネスといった興行師知遇得てテキサスからプエルトリコに至る南部テリトリーリック・フレアーらと転戦しザ・ファンクスダスティ・ローデスハーリー・レイスらと抗争展開した当時レイス地元であったセントルイス地区でも対戦が行なわれ、ヌンチャク一撃フォール勝ちしたという記録がある。そのレイスとの決着戦は金網デスマッチで、満員観客動員したリングネームは、本名一部から『ミスター・セキ』(Mr.SEKI)。のちに、日系レスラーの大先輩であるグレート東郷あやかり、『ミスター・トーゴー』(Mr.TOGO)に改名した。しかし実際に対戦表に『ミスター・ポーゴ』(Mr.POGO)と誤記されてしまう。プロモーターテリー・ファンク抗議したが「俺がこの名に命名した」と押し切られこのまま「ポーゴ」の名を用いようになった海外での活躍認められ1976年国際プロレス凱旋。国プロ崩壊後古巣新日にもスポット参戦しており、1986年7月25日秋田県立体育館ではケンドー・ナガサキとのコンビIWGPタッグ王座挑戦した王者組は藤波辰爾木村健悟組)。国プロリング上がった頃はかなりの巨漢で、公称130kgであったが、新日参戦時には格段にスリムになっていた。 その後プエルトリコアメリカ南部などの海外中心に活動1988年起きたブルーザー・ブロディ刺殺事件の際には同じ大会出場していた。事件後、プエルトリコ・マットが信用失墜から人気急落し興行数が激減したため、帰国して地元プラスチック成形工場働いていた。

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