FMW参戦まで
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地元名士で、群馬県議会議員を6期、議長まで務めた関川勝三郎の末子。坊ちゃん扱いされて育った。 恵まれた体躯を活かして小学3年から柔道を習い、伊勢崎工高から中央大学法学部にスポーツ推薦で進学(ジャンボ鶴田と同期)したものの、勉学と柔道部の厳しい練習に付いて行けず、更に父の急逝にショックを受け、1年で中退。 父の没後、周囲の人間の手の平を返したような態度に絶望し、「腕っ節だけで成り上がってやる」という思いを強め、亡父の後援者の仲介で大相撲・二所ノ関部屋に入門し四股名は関川で1971年7月場所初土俵、番付に載った翌9月場所では序ノ口優勝したが、ひざの故障により廃業した。最高位は、序二段24枚目。 その後プロレス志望に転じ、中学の同級生の浜田広秋(後のグラン浜田)と共に、旗揚げ間近の新日本プロレスに出向いたところ、選手のコマ不足から即時入門を許された。 1972年3月20日、足立体育館の藤波辰巳戦でデビューしたものの、山本小鉄から疎まれて知らない間に解雇されていて旗揚げの1シリーズのみで退団した。 翌1973年、ロッキー青木に憧れて単身渡米し、動きが少なく殴る蹴る中心の喧嘩風ショーマン・スタイルを習得。カルロス・コロン、ビクター・キニョネスといった興行師の知遇を得て、テキサスからプエルトリコに至る南部テリトリーをリック・フレアーらと転戦し、ザ・ファンクス、ダスティ・ローデス、ハーリー・レイスらと抗争を展開した。当時レイスの地元であったセントルイス地区でも対戦が行なわれ、ヌンチャクの一撃でフォール勝ちしたという記録がある。そのレイスとの決着戦は金網デスマッチで、満員の観客を動員した。 リングネームは、本名の一部から『ミスター・セキ』(Mr.SEKI)。のちに、日系レスラーの大先輩であるグレート東郷にあやかり、『ミスター・トーゴー』(Mr.TOGO)に改名した。しかし実際には対戦表に『ミスター・ポーゴ』(Mr.POGO)と誤記されてしまう。プロモーターのテリー・ファンクに抗議したが「俺がこの名に命名した」と押し切られてこのまま「ポーゴ」の名を用いるようになった。 海外での活躍を認められ、1976年国際プロレスに凱旋。国プロ崩壊後は古巣の新日にもスポット参戦しており、1986年7月25日に秋田県立体育館ではケンドー・ナガサキとのコンビでIWGPタッグ王座に挑戦した(王者組は藤波辰爾・木村健悟組)。国プロのリングに上がった頃はかなりの巨漢で、公称130kgであったが、新日参戦時には格段にスリムになっていた。 その後はプエルトリコやアメリカ南部などの海外を中心に活動、1988年に起きたブルーザー・ブロディ刺殺事件の際には同じ大会に出場していた。事件後、プエルトリコ・マットが信用失墜から人気急落し興行数が激減したため、帰国して地元のプラスチック成形工場で働いていた。
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