入社から社長就任まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 02:13 UTC 版)
外国に行ってみたかったので輸出部を志望し、配属。25歳で取締役就任。米トンカ社との提携により1970年にジャパントンカが設立され、その社長に就任する。トンカのミニカーの日本販売を手掛けるものの不調に終わり、1973年にバンダイ本社に戻る。[要出典] この頃、子会社のポピーが『仮面ライダー』の変身ベルトなどのキャラクター玩具を手がけ急成長する一方、純玩具(キャラクター玩具ではない普通の玩具)を手掛けるバンダイ本社の業績は伸び悩んでいたことから、山科は経営の多角化を提案。玩具自動販売機事業や出版事業などを手掛けるようになる。[要出典] 1978年には、『宇宙戦艦ヤマト』ブームを見て、『ウルトラシリーズ』の商品ライセンスを獲得し、ウルトラマンブームを起こし、翌年放送の『ザ☆ウルトラマン』生むきっかけになった。[要出典] 1980年に35歳でバンダイ社長に就任。直治によると「決して私の長男だから継がせるという世襲制的な考え方は全くない。新社長には未完ながら大変優れた素質がある」としている。また直治と「業績が数年にわたり悪くなったら、年が若くとも止めてもらう」という約束を交わした。[要出典] 山科誠が後に語った所によると、直治は胃ガンで先が無いと考え社長職を譲ったものの初期のもので手術後回復。「もし父の病気がなかったら、他の優秀な社員がバンダイの後継者になっていて、私が社長になることはなかったのではないかと思います」とも語っている。[要出典]
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入社から社長就任まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 01:43 UTC 版)
入社時のメリーチョコレートは社員26名の中小企業で、初任給は6,600円と県立高校の10,300円よりかなり低額だった。入社後は一貫して営業を担当し、1959年2月には再びバレンタインデーのフェアを企画している。前回の反省から調査によって愛のイベントであることなどを知り、ハート型のプラスチックケースに流し込んで表面に"to"と"form"の文字を入れたチョコレートをフェア用に作製した。伊勢丹の売場では東京芸術大学の学生を雇い、購入者と相手の名前を鉄筆で彫った。1年目は3日間しか休みを取らず、朝7時半から夜11時まで働いたという。 入社後の数年間は昇給もなく子供の粉ミルク代にも事欠いたが、1965年には1年間通い続けて三越との契約に成功し、1966年からは松坂屋銀座店でもバレンタインフェアを開始するなど、会社の業績拡大に務めた。1969年には営業部長としてロサンゼルスのショッピングセンターへの出店を手掛け、ブラウン&ヘーリーの商品と自社製品を販売した。この店舗の経営が軌道に乗った後、父の知人の紹介でニューヨークのメイシーズで2週間の就業体験をした。ここで見たオフィスコンピュータに影響を受け、帰国後に取締役となると1971年にMELCOMを導入して在庫管理に利用した。 1972年からは当時手書きだった納品伝票をロール紙で発行するように改めた。また、日本百貨店協会会長の安藤楢六に百貨店ごとのコード番号導入と伝票形式の統一を提案し、これを契機として1976年頃に同業界の納品伝票はロール式に統一されている。さらに情報化を進め、1975年にはPOSの原型となる販売日報の報告を始め、1982年には本社のメインフレームを各売場の端末とつないで発注や売上報告をオンライン化して在庫・出庫の管理を効率化し、1983年の本社ビル建設の際には光ファイバーの導入も決めている。一方で、1985年に専務の兄・晃が胃癌で、相次いで、翌1986年には社長である父・堅太郎が気道を詰まらせて亡くなり、急遽 社長に就任した。
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