帰国後~1980年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 07:36 UTC 版)
「ヨシダミノル」の記事における「帰国後~1980年代」の解説
1978年(昭和53年)帰国後、ヨシダミノルは日本でも積極的にパフォーマンスを行うようになり、この頃から関西を中心に「パフォーマンスアート」という言葉が使われるようになる。『週刊新潮』に「現代美術の奇人」と表されたパフォーマンスは、亡くなった知人に捧げられたもので、現代美術展の受付日に審査員の眼前で頭から黒いペンキを被って披露したものだった。この頃、公私ともに終生のパートナーとなる荒木みどりと出会い、1980年(昭和55年)の京都アンデパンダン展 では、展示会場で2人で樵に扮して日常生活を送るパフォーマンスを披露した。1982年(昭和57年)には、兵庫県立近代美術館に家財道具一式を持参して「移住」 し、1か月間生活するパフォーマンスを行った。パフォーマンスでは、来場者に1杯100円でコーヒーを振る舞い、会話を楽しんだ。観客は、中学生から90歳の老人まで、幅広い年代の客が訪れた。このようなパフォーマンスについて、ヨシダは主観と客観の入れかわる状態がおもしろいと述べている。 なぜかっていうと僕たちはお客さんを見に近代美術館へ行ってるというか、見たくてすわってるんですよ。主体のつもりが客体になってたりして、お客さんに「何でめし食ってるんですか」って言われて。こういう状態で、これでめし食ってるんですよっていうと信じられないといった顔されて(笑)。キャラバンとかサーカスみたいなもんですよネ(笑)。 — 「ヨシダミノル 気持ちを制作する。」 私生活と芸術家としての仕事生活に違いの無い生き方を、幻想に満ちた多くの現代美術と比して、ヨシダは美術とはもっと普段的なものでよいと述べている。1日1日の存在を大事にすることを美術ととらえ、「超絶生活」と称した。生活そのものがパフォーマンスであり美術作品であるとする芸術家は、ヨシダミノルをおいて他にいないと、兵庫県立近代美術館学芸員(当時)の山脇一夫は明言している。そのような自身の芸術スタイルについて、ヨシダ自身は次のように述べている。 人と宇宙、人間のヘッドの中いうのは宇宙なんですよネ、つまりその小宇宙とそれに大宇宙があって人間の存在ってどこにあるんやと考えておこがましく言うたら人間の原点みたいなことを考えついてこういうことになったんやね。 — 「ヨシダミノル 気持ちを制作する。」 僕がやっているのはフィクションです。でもそれはきっとサイエンスとしてのフィクション、SFなのかもしれませんね。 — 「ヨシダ稔 サイエンス・フィクション的アーティストのこと」 美術評論家ミシェル・タピエは、ヨシダミノルも属した具体を、あらゆる形式にとらわれない現象アンフォルメルととらえたが、ヨシダはそれを大宇宙的現象として受け止め、さらに生命の概念を交えて、人間も含めた生命体の小宇宙の存在そのものが大宇宙を構成すると考えた。「生」そのものを描くヨシダのスタイルは、人間の思想的表現で宇宙を論じた一形態であり、フィクションを現実化する状況を芸術と称した。古来、多くの芸術家がそのように表現してきた事象を、商業的に表現したものが映画「スターウォーズ」や「未知との遭遇」のようなものである、と、比例している。 兵庫県立近代美術館で開館時から学芸員として中心的な役割を担った中島徳博(故)は、ヨシダミノルが自宅アトリエを大空ライブ美術館として開放した行為の中に、美術と生活という二元性を廃し、人間の基盤的な生活の場から芸術そのものを総括的に問いただしていく作家の一貫した立場が表明されていて、それはきわめて壮大なスケールの過激な発想であると賞賛した。大空ライヴ美術館は、ヨシダのフィールドである美術やパフォーマンスのみならず、音楽など異分野の若者たちも集まる場所となり、当時京都でも流行していたアンダーグラウンドな文化に影響を与えた。そうした若者の1人は「現代美術なんて難解やし興味なかったんだけど大空ライブ美術館へ来て話をするようになって変わった」というようなコメントを残している。美術館として1980年(昭和55年)から京都アンデパンダン展で毎年行ったパフォーマンス・アート「キリコと、キコリの生涯」は、1983年(昭和53年)の4回目で終演を迎えた。終演に際し、ヨシダは「これで止めます、やはり進まないといけませんから」との言葉を残している。大空ライブ美術館は1983年(昭和58年)5月に閉館した。
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