1980年代 - 晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:19 UTC 版)
「アーニー・ラッド」の記事における「1980年代 - 晩年」の解説
1980年3月2日には中西部のカンザスシティにおいてブルーザー・ブロディと組み、空位となっていたNWAセントラル・ステーツ・タッグ王座の争奪トーナメントに出場、決勝でジェリー・オーツ&テッド・オーツを破り新王者チームとなった。同年は、6月28日にデトロイトで行われたワンナイト・タッグ・トーナメントにもアブドーラ・ザ・ブッチャーとの黒人コンビで出場、準決勝でザ・シーク&キラー・ブルックスと対戦した試合が日本でも全日本プロレス中継において放送された。翌月にはブロディと共に全日本プロレスに来日、8月4日に館林にてジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。帰国後の11月1日にはインディアナポリスにてディック・ザ・ブルーザーを下し、WWA世界ヘビー級王座を獲得している。 以降、1980年代前半は地元ルイジアナに拠点を置くビル・ワット主宰のMSWA(旧NWAトライステート)を主戦場に、1981年1月16日にジェイク・ロバーツからルイジアナ・ヘビー級王座を、2月1日にはレロイ・ブラウンと組んでジャンクヤード・ドッグ&キラー・カール・コックスからミッドサウス・タッグ王座をそれぞれ奪取。同年はダラスのWCCWにも参戦しており、5月11日にケリー・フォン・エリックを破ってNWAアメリカン・ヘビー級王座を獲得。11月にはホセ・ロザリオを下してブラスナックル王者にもなった。 以降、古傷の膝が悪化してからはMSWAにてマイク・シャープ・ジュニアやワイルド・サモアンズ、ブッチ・リードらのプレイング・マネージャーを担当。1984年10月16日にマグナムTAを破り、北米ヘビー級王座に返り咲いたのが最後のタイトル戴冠となった。1986年に現役を引退して、WWFでカラー・コメンテーターとして活動。ベビーフェイスのポジションに戻り、悪党コメンテーターのジョニー・バリアントやボビー・ヒーナンと舌戦を展開した。その後、地元のルイジアナでプロテスタントの牧師に転じた。1995年にはWWE殿堂に迎えられている。 2004年のWWE殿堂表彰式ではMSWA時代の抗争相手だったジャンクヤード・ドッグのインダクターを務めた。 2007年3月10日、結腸癌のため死去。68歳没。生前はジョージ・W・ブッシュの親友でもあり、大統領時代のブッシュが病床のラッドを見舞って話題になったこともあった。
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