1980年代: 新たな時代
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「中国におけるボディビル」の記事における「1980年代: 新たな時代」の解説
ボディビルの禁止は30年間続き、1983年に正式に解禁された。しかし、禁止されている間も「中国ボディビルの父」と呼ばれた婁琢玉のもと、ひそかにボディビルを実践する人は少なくなかった。婁琢玉はアメリカにおけるボディビルの第一人者であるジョー・ウイダーとも交流があり、中国ウェイトリフティング連盟にも関係が近かった。その後「中国において最も影響あるボディビル・メディア」ともいわれる雑誌「健与美」と中国ボディビル協会は、初めての全国的ボディビル・コンテストであるヘラクレスカップを主催するにいたる。 1985年には広東省の住民であるYuan Guohuiが「民間では初のフィットネスクラブ兼ボディビルジム」を開き、自らもボディビルのイベントの主催をつづけた。この年、中国は国際的なボディビル団体である国際ボディビル連盟の128番目の加盟国になった。このとき初めて女性も参加者として大会登録ができるようになったが、当時は女子選手はワンピースの水着を着なければいけないという条項があった。女性もビキニで競技できるかどうかについては大いに議論がなされ、「ビキニ論争」と呼ばれるほどだった。国際基準に照らせば、女性はビキニを着なけばならなかったのである。1986年には深圳でヘラクレスカップが開催され、中国ではじめてビキニを着用した選手が参加したことで注目された。1980年代には中国にも数えきれないほどのフィットネススクールやスポーツ用品店がうまれた。
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