出陣学徒壮行早慶戦
出陣学徒壮行早慶戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 16:54 UTC 版)
太平洋戦争の敗色が濃くなった1943年秋、慶應義塾大学野球部主将阪井盛一は、野球部長であった平井新に、生きて帰ることが叶わないかもしれない学徒出陣を前に、早慶戦を開催することを申し出た。平井はこれを受け入れ、学生時代からの師でもある慶應義塾塾長小泉信三にこれを進言し、小泉はこれを快諾した。平井と阪井は、東京六大学野球連盟理事の早稲田大学野球部顧問飛田穂洲を訪れ、早慶戦を行うことを申し入れた。早大野球部は大いに喜んだが、早大当局は、敵国アメリカ生まれの野球に対し圧力を強める軍部や文部省からの弾圧を懸念して難色を示したため、平井は試合当日までに及ぶ厳しい交渉を行うこととなった。そして、1943年10月16日、早大の戸塚球場において、「出陣学徒壮行早慶戦」が行われた。第二次世界大戦期間におけるアマチュア野球最後の試合として知られ、別名を「最後の早慶戦」という。
※この「出陣学徒壮行早慶戦」の解説は、「平井新」の解説の一部です。
「出陣学徒壮行早慶戦」を含む「平井新」の記事については、「平井新」の概要を参照ください。
- 出陣学徒壮行早慶戦のページへのリンク