東京六大学野球の中止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 14:24 UTC 版)
「出陣学徒壮行早慶戦」の記事における「東京六大学野球の中止」の解説
日中戦争(支那事変)の開始に伴い強まっていた戦時色は1941年の太平洋戦争開戦によりさらに強まっていた。敵国アメリカ合衆国で生まれた野球は軍事教練に関係がないこともあって、敵性スポーツとして弾圧の対象となっており、中等学校野球・都市対抗野球は1942年限りで中止に追い込まれた。 そして東京六大学野球でも平日の試合開催禁止から始まって1940年から秋季リーグ戦は各校1回戦総当たり、1日3カード実施=約1か月で日程を消化させられるという縮小状態に追い込まれていた。 そして1942年10月25日の秋季リーグ戦・早大vs立大戦を最後に、1943年4月7日にはついに文部省がリーグ解散令を強行した。この為、東京六大学野球加盟校は次第に活動停止に追い込まれてしまったものの、早大と慶大の両校は辛うじて練習を続けていた。
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