出場メンバーとスコア
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「出陣学徒壮行早慶戦」の記事における「出場メンバーとスコア」の解説
慶應義塾大学 打順 守備 選手名 出身校 卒業後・戦後の主な進路 1 (左) 矢野鴻次 下関商業 戦後に復学。大洋漁業 2 (二) 山県将泰 広島商業 戦後に復学。植良組→大昭和製紙 3 (捕) 阪井盛一(主将) 滝川中 慶大野球部監督(1949年 - 1955年) 4 (中) 別当薫 甲陽中 戦後に復学。全大阪→大阪タイガース→毎日オリオンズ 5 (右) 大島信雄 岐阜商業 戦後に復学。大塚産業→松竹ロビンス→中日ドラゴンズ 6 (一) 長尾芳夫 東邦商業 愛知産業→電電東海 7 (投) 久保木清 広島商業 戦後に復学。山崎産業→大昭和製紙→読売ジャイアンツ→電電東京→日本鉱業佐賀関 投 高松利夫 東京市商 菊水クラブ→大映スターズ 代打 加藤進 愛知一中 戦後に復学。藤倉電線→愛知産業→中日ドラゴンズ 8 (遊) 河内卓司 広島一中 戦後に復学。大洋漁業→毎日オリオンズ→高橋・トンボユニオンズ 9 (三) 増山桂一郎 敦賀商業 戦後に復学。大塚産業→大映スターズ→日本石油 チーム123456789R慶応義塾大学 0 1 0 0 0 0 0 0 0 1早稲田大学 1 0 4 2 0 0 3 0 X 10 早稲田大学 打順 守備 選手名 出身校 卒業後・戦後の主な進路 1 (二) 森武雄 岐阜商業 大日本土木→岐阜商業野球部監督→川島紡績→岐阜カンツリー倶楽部 2 (捕) 伴勇資 福岡工業 西日本鉄道→西鉄ライオンズ→東急→大映→柳川商業・国士舘大学野球部監督 3 (左) 近藤清 岐阜商業 1945年4月28日、神風特攻隊員として出撃し、沖縄で戦死 4 (一) 笠原和夫(主将) 市岡中 大野大喜クラブ→北新化学→全大阪→南海ホークス→高橋・トンボ・大映ユニオンズ 5 (中) 吉江一行 磐城中 1945年10月3日、戦病死 6 (投) 岡本忠之 扇町商業 戦後に復学して主将を務め、1947年に藤倉電線に入社。1948年、結核により死去 7 (三) 鶴田鉦二郎 岡崎中 戦後に復学 8 (右) 伊藤利夫 岐阜中 大日本土木→近鉄パールス→阪急ブレーブス→岐阜高校野球部監督 9 (遊) 永谷利幸 平安中 中支戦線で戦死 試合は早大打線が慶大の久保木投手を打ち崩して10-1で勝利した。 早大当局が開催になかなか応じないことから、試合実現の可能性が薄いと見た慶大は選手たちを一旦故郷に帰していた(家族たちと最後の別れをさせるため)。学徒出陣ギリギリの段階で試合ができそうなことがわかり急遽選手を呼び戻したものの、慶大にしてみれば練習不足にエース大島の故障があり、この結果は致し方ないところでもあった。 しかし、両校は勝敗を度外視して思う存分野球を楽しんだ。戸塚球場に応援に詰めかけた学生たちもそれは同じであった。両校から校歌・応援歌とともに「ありがとう」「戦場で会おう」の声が交わされる。慶大生が『都の西北』を、早大生が『若き血』を歌い上げるうちに両校のエール交換が終わると、どこからともなく「海行かば 水漬く屍」の歌声、それはやがて球場全体に鳴り響いたのである。 早大野球部は大学当局との交渉に苦闘しながらも、この日のためにグラウンドを整備し、便所にいたるまで綺麗に磨き上げて慶大を迎えた。慶大もこれに応え、小泉塾長が座布団代わりの新聞紙をきれいに畳み、ポケットに詰め込んで立ち上がると、学生たちも紙くず一つ残さず清掃して戸塚球場を後にしたのである。
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