出場メーカー
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「1906年フランスグランプリ」の記事における「出場メーカー」の解説
グランプリで我々が勝てば、世界にフランスの自動車がベストであることを知らしめることができるだろう。もし負けたとしても、それは単なる偶然であり、ライバルたちは自国車の悪評を挽回する機会を与えてくれた我々のスポーツマンシップに感謝するべきだ。 『ザ・モーター』が引用した仏紙『ル・プティ・パリジャン』の主張 このレースにはフランスからオチキスやルノー、パナールなど10社の自動車メーカーが参加したほか、イタリアからもフィアットとイターラ(英語版)の2社が、ドイツからは1社(メルセデス)が参加した。ほとんどのメーカーが各3台の車を出場させ、総出場台数は34台となった。一方で、イギリスおよびアメリカの自動車メーカーは参加しなかった。イギリス人たちはこのイベントがフランス自動車産業のためのプロパガンダとして利用されることを疑っており、イギリスの自動車雑誌『ザ・モーター(英語版)』はフランス側にスポーツマンシップが欠如していることの証拠として、フランス紙『ル・プティ・パリジャン(英語版)』の記述を引用した。 ACFは出場車両に1,000キログラム (2,205 lb)の最大重量制限を課した(車両重量とは別に点火装置用のマグネトーまたはダイナモの重量として最大7キログラム (15 lb)が認められていた)。燃費にも規定があり、使用可能な燃料は走行距離100キロ当たり最大30キログラムに制限されていた。出場車は全車4気筒エンジンを搭載していたが、エンジン排気量は最小はグレゴワール(英語版)の7433 ccから、最大はパナールの1万8279 ccまで様々だった。排気によって路面からダストが舞い上がるのを避けるため、各車の排気管は上方に向けて伸ばされていた。 各チームにタイヤを供給したのはミシュラン、ダンロップ、コンチネンタルの3メーカーだった。ミシュランはこのグランプリに "jante amovible" と呼ばれる新型リム(タイヤがあらかじめ取り付けてある着脱可能なリム)を持ち込み、パンク時のタイヤ交換に要する時間を大幅に短縮した。ゴードン・ベネット・カップとは異なり、グランプリではレース中、ドライバーと同乗メカニック以外に競技車両に触れることは許されなかったため、ミシュランの新型リムを使用することは大きなアドバンテージになり得た。旧来のタイヤ交換ではナイフで古いタイヤを切り離す必要があり、15分程度の時間を要したが、新型リムを用いたタイヤ交換は4分以内に完了することができた。フィアット車は4輪すべてに新型リムを使用した。ルノー車と2台のクレメント・バイヤード車は後輪にのみ新型リムを使用した。新型リム1つにつき、通常のリムと比べて9キログラム (20 lb)の重量が追加された。イターラやパナールなどの車両は最大重量制限を超過するため新型リムを使用できなかった。 イベント名にはフランス語で「大賞」を意味する「グランプリ (Grand Prix)」の語が使われたが、これはレース優勝者に与えられる賞金の4万5000フランを指していた。
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出場メーカー
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「日本製オートバイの耐久性向上」を目的とし、部品類は全て日本製を使用することが参加条件であった。バイクメーカー単位の参加で参加資格は150cc以下、1チーム(メーカー)3台までとされた。排気量と日本製であること以外には特に制限はなかったが、当時のオートバイメーカーには新たにレース専用マシンを製作するような余裕はなく、ほとんどは市販のマシンそのままか、市販マシンに改良を加えたものでの参加だった。また、「前後ブレーキとホーンを必ず取り付けること」という、オートバイ黎明期ならではのルールもあった。 個人1位の選手には10万円の賞金が与えられた一方、1社につき5万円の参加料が必要で、レース仕様マシンの制作費や遠征費用などを合計すると1社が3台を参加させるためには100万円程度の経費が必要となった。一流企業における大卒初任給が1万円前後という時代であり、小規模メーカーの中にはこの費用を捻出できずに出場を断念したところもある。 最終的にエントリーしたのは出走順に以下の19社57台である(出走順は抽選により決定された)。 出走順メーカーオートバイ1エーブ自動車工業 エーブスター号 2BFモータース商会 BFビクター号 3伊藤機関工業 IMC号 4新明和工業 ポインターコメット号 5北川自動車工業 ポトリーライナー号 6昌和製作所 昌和号 7スミタ発動機 スミタ号 8モナーク工業 ポニーモナーク号 9ロケット商会 クインロケット号 10天龍織機 テンリュー号 出走順メーカーオートバイ11山下工作所 パール号 12大阪ゼット工業 ゼット号 13土井産業 フライバード号 14萬邦自動車商工 ファルコン号 15藤田産業 オートビット号 16丸正自動車製造 ライラック号 17長本発動機研究所 ライフ号 18本田技研工業 ホンダドリーム号 19穂高工業所 ホダカ号 ほとんどの車両は当時のオートバイの主流である4サイクル単気筒OHVエンジンだったが、長本発動機研究所のライフ号は当時既に旧式となりつつあったサイドバルブ型、一方で昌和製作所の昌和号は最先端のOHC型であった。また、当時の小規模メーカーはエンジンを含め他社製の部品を組み立てて製品とする「アッセンブリメーカー」であったため、異なるメーカーの車種であっても同じエンジンを搭載しているというケースも見られた。 ちなみに名古屋TTレースの出場メーカーで現在までオートバイメーカーとして存在しているのは、この時点で既にドリーム号などのヒット作を送り出し、レース前の人気投票でも1位となったホンダだけである。ヤマハがオートバイの製造を開始するのは2年後の1955年(昭和30年)であり、スズキはこの時点ではまだ自転車に取り付けるエンジン(バイクモーター)の製造を行っていたにすぎない。 一方、出場ライダーでは大正時代のレースにも出場経験のある竹之内縣一(ホダカ号)が61歳で出場者中最年長。最年少は山下工作所の創業者の息子でパール号に乗る12歳の山下護祐で、当然運転免許は所有していなかったが大会の出走選手資格の中には「年齢未満の者で大会実行委員会の承認を得た者」とあった。
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