試合開催までの苦難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 14:24 UTC 版)
「出陣学徒壮行早慶戦」の記事における「試合開催までの苦難」の解説
太平洋戦争の開始直後は華々しい戦果を挙げていた日本軍も、そのうちに各地で敗退を繰り返していくようになった。1943年には日本近海でアメリカ合衆国の潜水艦が日本の資源輸送船を襲うようになるなど、すでに戦局も深刻なものになっており、10月には法文学部系学生の徴兵延期停止の命令が下るまでになった(学徒出陣の項参照)。 「ひとたび戦地に赴けば、生きて故郷の、そして学舎の土を踏むことは叶わないかもしれない、せめて最後に試合を、出来るならば早稲田と試合をしたい……」 こうした思いから、慶大野球部主将阪井盛一は部長平井新を通じて塾長小泉信三に早慶戦の開催を申し出た。このとき文部省からの通達により、対外試合の実施は大学総長の方針に任せられていたのである。 「出陣する学徒たちに何か餞を、それには早慶戦がふさわしい……」 そう考えた小泉はこの申し出を快諾、阪井・平井は連盟理事の早大野球部顧問飛田穂洲(同部初代監督)を訪れ、学生野球の聖地:明治神宮野球場で早慶戦を行うことについて申し入れた。小泉のこの一戦にかける決意は固く、文部省を通さねばならない神宮球場の使用については自分が交渉に当たっても良い、とまで言った。この申し出に早大野球部は大いに喜び、慶大野球部も急遽帰郷中の選手を呼び戻して練習を再開した。 ところが試合実現に大きな障壁が立ちはだかった。早大当局が難色を示したのである。軍部や文部省の弾圧に抗しきれず、試合の申し出を応諾出来ないでいたのである。そうしているうちに学徒出陣の日は迫る。早大野球部は飛田だけでなく部長外岡茂十郎、マネージャー相田暢一らが大学当局を必死に説得するが大学当局は煮え切らない態度を見せ続ける。実はこの年の春にも慶應義塾から早慶戦開催の申し出があったが、同様に大学当局の反対に遭い実現できずに終わっていた。田中穂積総長が難色を示し、外岡らが必死の説得工作を行い報國隊の部隊長会議で挙行賛成が過半数を上回る結果となっても、結局田中総長が開催を許さなかったのである。 こうした事情を察して慶大側も、「試合場が神宮で都合が悪ければ日吉の慶大グラウンドでも早大の戸塚球場でも構わない」との配慮を見せた。それでも早大当局は、戸塚球場で実施して事故でも起きたら誰が責任を取るのか、と一向に試合実施を認めない。ついに早大野球部は大学の反対を押し切り野球部として責任を持って試合を挙行することを決意した。それでも、軍部・官僚の機嫌を取り何としても挙行を阻もうとする大学側との厳しいやりとりは、結局試合当日まで及んだ。
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