松岡洋右との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:43 UTC 版)
斎藤は初任地の天津で清国公使館二等書記官であった松岡洋右と知り合い、松岡の満鉄副社長、外務大臣時代にそれぞれ満鉄理事、外務省顧問を務めた。斎藤は「松岡外交の最高補助者」を自認し、北岡伸一がその満鉄理事への就任が松岡の推挙と推定するように両人は近い存在であった。松岡や近衛文麿に奨められた第二次近衛内閣での外務省顧問就任に際しては、松平恒雄宮相に相談し、「外務上層部の戦争突入のブレーキ役」として就任を決意する。しかし、日独伊三国同盟交渉に際して辞職を考慮し、斎藤によれば松平や小幡酉吉に相談したが引き止められたという。斎藤は三国同盟締結に協力し、戦後に松岡が意図した所を明らかにするため『欺かれた歴史』を著す。同書の緒言は以下のように結ばれている。 三国同盟は、締結当時から今日まで、きびしい批判を受けている。それが外交責任者としての松岡への非難となったことは、当然とはいいながら、この同盟の真相を知る者から見れば、はなはだ彼に気の毒である。そればかりか日本の外交に対する誤解ともなる。そこで私は、この真相を赤裸々にぶちまける決心をした。そのある部分は松岡攻撃になるが、これがかえって彼に喜ばれるような気がする。(中略)なお、松岡外交に関する松岡の失敗は、最高補助者としての私の失敗でもあり、松岡に対する私の筆誅は、同時に私自身に対する筆誅でもあり、私の自己批判であることは、いうまでもない。
※この「松岡洋右との関係」の解説は、「斎藤良衛」の解説の一部です。
「松岡洋右との関係」を含む「斎藤良衛」の記事については、「斎藤良衛」の概要を参照ください。
- 松岡洋右との関係のページへのリンク