秦豊助とは? わかりやすく解説

秦豊助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 06:28 UTC 版)

秦豊助

秦 豊助(はた とよすけ、1872年9月29日明治5年8月27日) - 1933年昭和8年)2月4日)は、日本の内務官僚政治家衆議院議員拓務大臣

経歴

回船問屋東京府会副議長、秦源祐の長男として東京築地で生まれる。東京府立一中日本中学校第一高等中学校を経て、1896年(明治29年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務属となり内務省参事官室兼県治局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。

1897年(明治30年)5月、福井県参事官に就任し、愛媛県参事官、千葉県参事官、神奈川県参事官・勧業課長を歴任。1905年(明治38年)4月から翌年5月まで欧州に出張。帰国後、1906年(明治39年)7月、長崎県事務官・第一部長兼第三部長となり、さらに同県内務部長を務めた。1912年(明治45年)3月、秋田県知事となり、さらに徳島県知事を務め、1915年(大正4年)1月に休職し、翌月、依願免本官。

1915年3月、埼玉県第一区から第12回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、1932年(昭和7年)2月の第18回衆議院議員総選挙まで連続7回当選した。1919年(大正8年)4月から1922年(大正11年)6月まで逓信次官を務める。加藤高明内閣では、1924年(大正13年)8月に海軍政務次官1925年(大正14年)4月に初代商工政務次官に就任。1927年(昭和2年)7月から翌年5月まで立憲政友会幹事長を務める。1931年(昭和6年)12月、犬養内閣の拓務大臣に就任し、1932年(昭和7年)5月、五・一五事件後の内閣総辞職まで在任した。

国光生命保険相互会社取締役も務めた。

栄典

伝記

  • 秦五十子編『秦豊助』秦五十子、1935年。

脚注

  1. ^ 『官報』第124号「叙任及辞令」1912年12月27日。
  2. ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
  3. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。

参考文献

公職
先代
若槻禮次郎
拓務大臣
第5代:1931 - 1932
次代
永井柳太郎




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「秦豊助」の関連用語

秦豊助のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



秦豊助のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの秦豊助 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS