経営の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/17 04:38 UTC 版)
長谷川は士族の婦女を女工として従事させ、失職の士族に桑の栽培と養蚕を奨励した。しかし、当時の石川県産の繭は少量・粗悪であったため機械織りに適さず、群馬県、長野県などから買い付ける必要があった。また、生糸の知識に乏しく、経営能力に欠けていたことから、全国的な好況下でも損失を重ねた。1875年(明治8年)、米国ニューヨーク駐在の副領事であった富田鐵之助は、米国絹業協会に対し日本産生糸の実物見本を送り、品質を問い合わせているが、その回答の中で、金沢製糸場の生糸は、製糸の性質は上、綺麗で節がなく繊度も揃っているものの、細すぎてアメリカ市場には向かないとの評価がされている。 金沢製糸会社は、こうしたいわゆる「武士の商法」もあり、1879年(明治12年)の生糸価格の下落を契機に解散に追い込まれた。金沢製糸場は、同年、官貸金を得て操業を続けたが振興せず、1885年(明治18年)に石川県の直轄となり、1888年(明治21年)閉鎖された。一方、明治10年代後半から繭の生産量と品質が高まり、女工の製糸の技術力も向上した。また石川県下で養蚕業や絹織物業が発展するなど、石川県での産業革命の基礎となった。
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