業界の優勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 19:27 UTC 版)
1903年、組織は公式にAssociation of Licensed Automobile Manufacturers(直訳では特許自動車製造業者協会)となる。エレクトリック・ビークル・カンパニーから好ましい権利を保障された。団体結成後、数ヶ月後、ウィントンがALAMメンバーとなり、ウィントンへの訴訟は取り下げられる。特許はその有効性が検証されることもなく法的有効性をもったままだった。 ロイヤリティは非常に低い率であったが、ALAMは契約上、自動車産業全体に対してそれを適用できるとされていた。グループは小売価格に対するロイヤリティ1.25%を交渉し、0.75%分はエレクトリック・ビークル・カンパニーに、0.5%分はALAM分となった。ALAMメンバーへの適用とセルデンライセンスは5人の役員の全員一致で決定された。この仕組みはロイヤリティをとられるALAMメンバーにとっては法廷でセルデン特許と対決するよりは安い金額とされており、しかも、メンバーであってもライセンスを受けていない法的競争者として存続することも可能とされていた。 ALAMの排除ポリシーは最後には帳消しにされることになる。フォード・モーターが1903年創業し、ヘンリー・フォードはすぐにセルデンのライセンスを入手しようとした。フォードは入会を断られる。公式には、過去2回の自動車会社経営の失敗を理由とされている。それは、デトロイト・オートモービル・カンパニーとヘンリー・フォード・カンパニーのことである。2つの会社を作ってはすぐに見捨てた未熟な経営者であり自動車業界にとって害であるとALAMはみなしたのである。だが、それはALAMにはすでに業界大手が参画していたことによる仲間同士の、内向きで安定志向のためでもあった。フレデリック・スミスが、フォードのALAM参加に最も否定的だった。 ALAM参加を否定されたということは、自動車製造をすることは許されないということだった。ALAMがそれを違法としたからである。しかし、フォードは新たな会社で自動車製造を開始した。 1903年10月22日、ALAMはフォード・モーター・カンパニーに対し訴訟を起こす。そして引き続いてみにくい広報宣伝合戦が繰り広げられた。ALAMはフォード車を購入した人まで訴訟対象となるとしてキャンペーンを張る。フォードもこれをやり返し、「この技術は進歩しつづけてきたし、現時点でもさらに進歩しつづけている。たとえセルデン氏がこの世に生まれてこなかったとしてもだ。我々はそのように考えている。」と自身の立場を述べている。 1909年9月15日、ホー主判事はセルデン特許の正当性を認める判決を下した。しかしながら、1年4ヶ月後の1911年1月9日の法廷では、セルデンの正当性を認めながらも、その範囲を厳格に適用した。セルデンの特許は2サイクルエンジンのみに適用され、当時すでに主流だった4サイクルエンジンには適用されないとした。この結果、判定は覆(くつがえ)り、審判はフォードに味方した。ALAMはこの判定を控訴しなかった。 セルデンライセンスの為に結成されたALAMはその役割を変え、この年、Automobile Board of Tradeとなり、1913年、National Automobile Chambers of Commerceとなる。1915年、メンバー各社間でのクロス・ライセンスの契約を締結。1922年には、AMA(Automobile Manufacturers Association:米国自動車工業会)となっている。 フォードと同時期、パナール・ルバッソールも訴訟を受けている。 ALAMは自動車の標準化をおこなった最初の団体であり、その技術部はのちSAEに参画し、一層の標準化を進め業界に貢献した。
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