宇佐美勝夫とは? わかりやすく解説

宇佐美勝夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 05:11 UTC 版)

宇佐美勝夫

宇佐美 勝夫(うさみ かつお、1869年6月21日明治2年5月12日〉 - 1942年昭和17年〉12月26日[1][2])は、日本内務官僚政治家。幼名は慎平。富山県知事東京府知事貴族院議員などを歴任した。

山形県士族宇佐美駿太郎の弟[3]

経歴

米沢藩士(馬廻組、100石[4]上杉斉憲戊辰戦争時の米沢藩主〉の御側役[4])で、戸長を務めていた宇佐美勝作の二男として生まれる。米沢中学第一高等学校を経て、1896年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入り内務属として県治局に配属された。同年10月、文官高等試験に合格。

1897年4月、徳島県参事官に就任。以後、京都府参事官、内務書記官宗教局、宗教局第一課長兼第二課長大臣官房文書課長、兼内務省参事官などを歴任。

1908年3月に富山県知事に就任。その後、統監府参与官、韓国政府内務次官、朝鮮総督府内務部長官、兼同府土木局長などを経て、1921年5月に東京府知事に就任。1925年9月、東京府知事を退任し賞勲局総裁に就任。資源局長官を経て、1933年2月、満州国国務顧問に就任した。

1934年7月3日、貴族院勅選議員に任じられ[5]同和会に属し死去するまで在任[1][6]。その他、維新史料編纂会委員、国家総動員審議会委員などを務めた。墓所は青山霊園

栄典

位階
勲章等

家族・親族

池田成章の三女よし(芳子)との間に譲(夭折)、三菱銀行頭取・日本銀行総裁を歴任した宮内庁長官を務めたと格(子に三菱ふそうトラック・バスの会長を務めた宇佐美隆)の四子を得たが死別した。成章の次女みつ(光子)はまだ独身で、妹の死後は子供達の世話をしており、家族の意向で再婚した(洵が「おばさんと暮らしたい」とせがんだという)。しかし、みつもスペイン風邪で病死し、更に後、四谷トクを後妻とした。トクとの間には一子の新(太平洋戦争で戦病死)がいた。

義兄に日銀総裁を務めた池田成彬が、義弟に三菱銀行頭取を務めた加藤武男がおり、妻の姪・敏(池田成彬の長女)は三菱財閥3代目総帥・岩崎久弥の次男で三菱製紙会長を務めた岩崎隆弥に嫁いでいる。

伝記

  • 故宇佐美勝夫氏記念会『宇佐美勝夫氏之追憶録』故宇佐美勝夫氏記念会、1943年。

脚注

  1. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』100頁。
  2. ^ 『官報』第4790号「貴族院議員逝去及弔辞」1942年12月29日。
  3. ^ 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)ウ三頁より
  4. ^ a b 故宇佐美勝夫氏記念会『宇佐美勝夫氏之追憶録』故宇佐美勝夫氏記念会、1943年、1頁。 
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、51頁。
  7. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  8. ^ 『官報』第4795号「叙任及辞令」1943年1月9日。
  9. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  10. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。

参考文献

外部リンク


公職
先代
(創設)
朝鮮総督府内務部長官
初代:1910年 - 1919年
次代
赤池濃
(内務局長)




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