塩松石橋家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:12 UTC 版)
陸奥国安達郡塩松城に拠った塩松石橋家は、もともとは大崎氏の支族であったが、後に上記の下野石橋氏の系統となり、京都扶持衆として鎌倉府の奥州支配に対抗した。篠川御所足利満直は京都方であったので、京都との取次ぎ及び幕府の使者の応接は石橋氏が行っていた。鎌倉府が永享の乱で崩壊した直後の永享12年(1440年)に、満直は畠山満泰・二本松持重・石橋左近将監・石橋祐義・蘆名盛信・田村利政らに攻められて殺害されたとの説もあるが、塩松石橋家らの関与は疑問が呈されている(実際に篠川御所を弑したのは石川氏であろうと言われる)。いずれにせよ塩松石橋家は、篠川御所を廃した後、一地方国人として存続したと考えられる。この頃の事は国人衆の記述が多い『余目氏旧記』にも出でこない事を考えると、足利一門として大崎氏や最上氏と同列に認識されていたと思われ、塩松石橋家は高い家格を誇っていたこともわかる。享徳の乱では石橋義仲が奥州で活躍している。 戦国時代に入り伊達氏の後継争いから生じた天文の乱で石橋尚義は稙宗派として参戦したが、後に晴宗派に鞍替えしている。しかし、天文19年(1550年)に重臣の大内義綱に実権を奪われて、塩松城内に監禁され、永禄11年(1568年)には塩松城からも追放されてしまった。そして、天正5年(1577年)に尚義は失意のうちに死去したという。これによって塩松石橋家は滅亡した。
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