塩木切り(ショッキ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 14:22 UTC 版)
塩木切りとは、山で伐った薪木を川に流して運ぶ生業。山熊田や周辺にある雷・中継などの山間地域の農村の重要な生業だった。「塩木」という名称は、塩を精製するための薪木だったためとされている。山北地区ではショッキと呼ぶが、県内でも地域により呼び名が違い、シオキ(南蒲原郡下田村大谷など)、ハルギ(新発田市滝谷など)、イカダ(北蒲原郡黒川村など)、コロ(南魚沼郡塩沢町姥沢新田など)と様々だった。 山熊田では、ショッキを伐ることを「ナメキ」「モトナメ」と呼んでいて、7月12日ころから小屋に泊まりながら伐り、お盆まで続ける。これを土用ナメという。伐採するために用いるのは、鋸やまさかり、鉈。また、山熊田特有の呼び名があり鋸は「ササッパ」、鉞は「マサ」と呼んでいた。伐採(モトギリ)を終えると、ナガリドリと呼ばれる枝を払い、寸法通りの大きさに切っていく作業に入る。お盆の前にここまでの作業を終え、お盆後に戻ってくるとコナシという作業に入る。直径6寸以上のものは長さ1尺、以下のものは長さ1尺6寸にする。その後、ハンと呼ばれる印を鉞で木の真ん中につけていく。ハンは村とその各家を見分ける為に2箇所打つ。しかし、昭和に入ってから国有林を村で払い下げて共同で伐るようになったので、それ以降は村を見分けるためのムラバンのみだった。 稲刈りが終わり収穫祭を催した後にまた山に入り、今度はカタメという作業に移る。これは立木を中心にマスを作り、マスの中に伐った木々を集めることで、木を乾かすためにやる。カタメの時はナメキにでた男衆と同数の女衆が参加し、担いで運んだり、大きな木は荷縄で背負って運んでいた。 厳しい冬を越した翌春の2月28日過ぎになると、男衆が山に登り小屋に積もった雪をどかして2晩過ごし、一度下山してすぐに登り「出し方」(運搬)の作業に入る。小屋を掘り出すときは男衆だけだったが「出し方」は女衆も参加する。「出し方は雪上を木を積んだソリを後ろから押したりして、沢口まで運び雪の上に運んだ木を広げて乾かす。 雪が溶けた5月の豊水期に、ショッキの水入れと呼ばれる川で流すために入れる作業に入る。ムキ(本流)に直接入れられないものは、支流に堤を作りその下に置いておく。水が溜まったら、一気に放流しその勢いでムキ(本流)まで流す。水入れしたら、切り方に出た男衆の数だけスケニンジョ(女衆)でる。そして、川の木を鳶口と呼ばれる道具を用いて流していく。山熊田から途中、中継で通例2泊するが通常の宿賃は掛からず、イシズリから淵までの間で沈んだ木が宿賃に充てられたと云われる。川は元々細く、雪解け水を利用して流すが、それでも木が打ち上げられるので都度スケニンジョが水に入れる。目的地の府屋まで流れ着くと、小口役が大川を堰き止めて運河に入れる。ショッキ流しの所要期間は、山熊田の落合部落から中継まで2日、中継から府屋までが4、5日。時には、洪水などにより木が海まで流され大損害を被ることもあった。他に、小俣や雷、中継なども大川を利用しショッキ流しをしていたため、混ざらないように流す期日をずらしていた。 1927年(昭和2年)ごろの山熊田一戸あたりの生産量は平均100棚。当時、米1俵を7、8円程で買えた時代で、ショッキ1棚約10円で売れたため、山間の山熊田では重要な生業で村をあげて年中木を伐っていた。
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塩木切り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 23:28 UTC 版)
山北では薪を「塩木」と呼んでいたため、山から薪を切り出すことを「塩木切り」と呼んでいた。山間の村では山で薪を切り出し、川に流して運び、それを売って生活の足しにしていた。1712年(正徳2年)の村明細帳に、出羽街道に沿った黒川俣組各村の作間稼ぎ(副業)について書かれており、11村のうち10村が作間稼ぎで塩木切りをしていて、雷でも塩木切りが行われていた。1751年(寛政4年)の雷村の記録には「雷村は山間農村の為、昔から山で自由に塩木切りをしていて生活の足しにしてきた」と書かれていた。当時、どこの村も村山があり個人所有の山など無かった。しかし、それでは不都合であると考え、村山の一部を百姓一人一人の持分を決めて分けていた。 明治時代に入ると更に塩木切りは盛んになった。雷では村の共有林で塩木切りをさせて、切り出した量に応じて税のような「塩木山手銭」と呼ばれる金銭を村に払わせていた。1910年(明治43年)に切り出した塩木は1200棚に上った。昭和10年代ごろまでは一戸100棚まで切って良いとされていたが、それ以降は部落の話し合いの末一戸50棚に制限された。 塩木切りは春過ぎに始まり、山に入って自分が切る範囲を決めて山小屋を作っておく。その後、7月20日前後に山へ入り「土用なめき」と呼ばれる木を薙ぎ倒し乾燥させる作業に入る。20日間のなめきで大体50棚になる。「なめき」を終えると木を塩木(薪)にするため、1尺5、6寸(47、48センチメートル)に切り、まとめて積んでおく。これらは3~4人で組になり、前述した小屋に泊まって作業が行われる。そして10月頃に川の堤に運び、川の流れを利用し府屋の浜まで運ぶ。 また、多くの村が大川を利用し塩木が運ばれていたため、村を識別する「村ばん」と個人を識別する「家ばん」が鉈や鉞で塩木一本一本を打たれており、それを元に府屋で仕分けられていた。 塩木切りは炭焼きが盛んになった大正・昭和でも林業の中心として行われていて、昭和10年代まで続いた。
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