塩止事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 18:37 UTC 版)
明暦末年から万治にかけて、会津領よりろうそくを、新発田領より塩を送るのが恒例としていた。御用商人の手による物々交換であった。ところがろうそくの輸送が突然途絶えたため、新発田側も塩の送出しを中止した。これよりさき新発田では「御在所にて蝋燭よろしく出来候につき...」という藩の記録があり、塩との価格不均衡が生じ、その交渉中にろうそくを止められ、相対して塩荷も止めたものと思われる。いずれにせよ御用商人の問題であった。 しかしこのことは会津藩を刺激した。「塩は領民の生死に関わり、また重要なる兵糧である。塩止めは敵対行為である。新発田藩主はいかなる意図ありや」と詰問状を送り、間罪使を派遣して強硬談判に及び、さらに幕府に訴え出た。親藩である会津藩は、当時の会津藩主保科正之は徳川家光の異母弟であり、23万石の東北を鎮撫する誇りがあった。対する外様5万石の小藩の新発田藩が対抗して塩を止めたことは、会津側にとってはその誇りを傷つけられたものであった。当時の幕府の大名廃絶政策はかなり熾烈であり、外様小藩の新発田にとっては存亡の危機であった。この時「拙者に存念がござる」と井上久助が名乗り出た。久助の身に全く関わりのないことであるが、自ら塩横領の犯人と名乗り、会津に出頭した。町人の中村墨五郎を帯同して行ったが、横領の事実を証言させるためであったとされる。久助は塩止めは欲に駆られた自分一個の所業であり、藩主溝口宣直以下何人もまったく与り知らぬことであると強弁し、ついには抱烙の刑(熱した銅板を渡る拷問)にも耐えた。久助は熱板の上を渡りつつ、謡曲「杜若」の一節を謡い、渡り終わるやばったりと倒れて無言であったという。結局、久助一人の罪とされ、中村墨五郎は許されて帰国した。その後、万治3年(1660年)10月10日、久助は会津藩と新発田藩の藩境(新発田市山内)の番所付近で、会津藩により斬刑に処せられた。
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