抜荷を巡る情報、風説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
「唐物抜荷事件」の記事における「抜荷を巡る情報、風説」の解説
天保6年(1835年)末に、幕府は薩摩藩、松前藩に対して抜荷の取り締まりを命じ、その後、第一回唐物抜荷事件が明るみに出る中、薩摩船の活動には大きな制約が加えられるようになった。天保7年(1836年)5月に紀州船を装った薩摩船が新潟港に入港するものの、積荷は蝋、砂糖、鰹節などが主で抜荷に当たる漢方薬種はわずかであった。これは規制が厳しくなったため船籍を紀州船と偽り、積荷もこれまでのような大量の抜荷の搭載を避けたのであった。このように船籍を偽ったり、他藩の船を利用しながら抜荷は続いていた。そして上述の北越秘説で述べられたように、事件後数年後には薩摩船の活動が再開され始めた。 天保10年7月10日(1839年8月28日)、老中水野忠邦は勘定奉行明楽茂村に抜荷に関する文書を手渡した。その中で、海上で琉球貿易で入手した唐物や蝦夷地の産物の抜荷取引が行われており、松前産の干アワビ、煎ナマコ、昆布等の俵物は薩摩船が抜買するために値段が高騰していること。薩摩商人は赤間関を拠点として石見の浜田、出雲などでも少々抜荷商売を行い、能登の輪島では漆器作りのために抜荷の朱の需要が多いこと。そして新潟町の商人が3月に抜荷品の漢方薬種や朱を大量に仕入れ、江戸を通して下総の方まで売りさばいた等の風説が載せられていた。
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