抜荷の本格化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:47 UTC 版)
「唐物抜荷事件」も参照 文政8年(1825年)、中国人商人の王安宇と楊嗣亭が長崎奉行所に行った長崎商法に対する異議申し立て時に行なわれた薩摩藩長崎蔵屋敷に対する事情聴取では、薩摩藩は俵物の集荷、そして琉球貿易を通しての中国輸出を否定したが、現実は唐物方が大量に購入した俵物を琉球貿易で中国へと輸出していた。 前述のように幕府は天明5年(1785年)、俵物の長崎会所独占買い入れを決定しており、俵物は長崎に集荷され、長崎貿易を通じて輸出されるはずであった。しかし現実には琉球貿易によって煎ナマコ、干アワビ、昆布等の俵物が大量に中国へ輸出されていた。これは抜荷によって薩摩藩が集め、琉球に送ったものであった。文政3年(1820年)の薩摩藩の長崎商法が本格化することにより俵物の需要は急増し、文政8年(1825年)の品増後、軌道に乗った長崎商法の影響を受けて薩摩藩関与の抜荷は最高水準に達した。 薩摩藩が関与する抜荷は新潟港が主な舞台となった。抜荷はサツマイモ等、薩摩の産物とともに漢方薬種、朱など琉球貿易で得た唐物の抜荷を積んだ薩摩船が新潟港で売却し、帰路は蝦夷地産の昆布等の俵物を積むという形で展開された。そして新潟から抜荷品の漢方薬種、朱などは各地へと広く売買されていった。 なお中国で昆布等の俵物や日本産の品物の出所を問われた時には「琉球産」と答えるよう指示が出されていた。これは琉球と取引をした中国人から話が広まり、長崎を経て幕府の耳に入ることを恐れたからと考えられる。このことに関して薩摩藩の唐物方からは琉球貿易に携わる琉球人は誓紙を交わすよう指示が出されており、対応の徹底が図られていた。
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