抜鉾神社と貫前神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 01:35 UTC 版)
「一之宮貫前神社」の記事における「抜鉾神社と貫前神社」の解説
明治以前の歴史書には、当社に関して「抜鉾神社」と「貫前神社」という2つの記載がある。また『和名抄』には甘楽郡に「抜鉾郷」と「貫前郷」の記載もある。それら「抜鉾」と「貫前」の関係については議論があり、以下の2説が存在する。 2神2社説 抜鉾神を祀る神社と貫前神を祀る神社は別々の神社であったとする説。 『日本の神々』では、「貫前」の社名は明治維新後に「抜鉾」から改められたもので、本来は「貫前」と「抜鉾」の2神2社であったものが「抜鉾」時代に2神1社となり、明治になって公式には1神1社になった、と述べている。さらに続けて、実際には現在も男・女2神を祀り、2神1社の形は残されている、とも述べている。同書では、朱雀天皇の承平年間(931年-937年)の『和名抄』上野国甘楽郡の項に「貫前郷」と「抜鉾郷」の名が見えることから、貫前神社と抜鉾神社は別地に建っていたと考察し、長元3年-4年(1030年-1031年)の『上野国交替実録帳』に「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあって「貫前」の名が無いこと、正一位で勲十二等と言う神階のおかしさ、この2点より『延喜式神名帳』成立後から『上野国交替実録帳』成立以前の間に「貫前」と「抜鉾」が混同されたと推測している。 『群馬県の地名』でも、初め2神2社でのちに2神1社となったとしている。なお2神の説明で、貫前神は甘楽郡鏑川に居住した渡来人の神、抜鉾神は碓氷郡・甘楽郡にいた物部氏一族の神としており、これが混同されたとしている。 1神1社説 抜鉾神社も貫前神社も同じ神社を指す異なる名であるとする説。 『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、「貫前」と「抜鉾」いずれの名も六国史に見え、神階に預かる霊験高い神であるが、『延喜式神名帳』には「貫前神社」を1座としているので両神は1神と見るべきであろう、と述べている。付け加えて、別々の2神であれば、官社の幣帛に預かる2座の神とされたはずであり、『延喜臨時祭式』の「名神祭二百八十五座」の1つに「貫前神社一座或作抜鉾」とある注記は同一神であることを示している、と述べている。さらに、『左経記』寛仁元年(1017年)10月2日条に記載の大神宝使に預かる「上野貫前」が、長元3年-4年(1030年-1031年)の国司交代時に作成した『上野国交替実録帳』の「抜鉾大明神」と別々であるとは考えられない、と述べている。
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