唐物抜荷の実態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
天保6年5月6日(1835年6月1日)付の、新潟美濃屋長之助から越後十日町の薬種商である加賀屋清助に宛てられた書状には、漢方薬種を積み込んだ薩摩からの船が春季と秋季に新潟に入港すると記されている。そして新潟港にもたらされた薬種は、高田や江戸、越中などに販売されると述べられている。そして前年の1834年(天保5年)の美濃屋と加賀屋とのやり取りからは、多種の漢方薬種が薩摩船の抜荷として新潟に持ち込まれ、公然と取り引きされていたことが判明する。 後述の川村修就による「北越秘説」においても、やはり新潟港には年間約6隻の薩摩船が入港し、サツマイモ等の薩摩の産物の下積みとして薬種、朱などの抜荷を大量に持ち込み、新潟から各地へと売りさばかれているとした。中でも朱については会津若松、加賀、能登、信濃などの塗物の産地に広まっており、それらの地方では朱塗りの製品が主力商品となっており、会津若松では朱塗りの漆器が黒塗りのものよりもきわめて安価になっていると報告されている。 また北越秘説には、領主である長岡藩側も薩摩船による抜荷を黙認し、その代わりに薩摩船からは他船よりも運上金を割増で取り立てていたとの情報も載せられていた。 薩摩藩関連の唐物抜荷最大の取引場所は新潟であった。これは前述のように新潟から各地へと抜荷品を売りさばくルートが構築されていた上に、対価となる蝦夷地産の昆布など俵物の集荷にも好都合な場所であったためである。売薬業が盛んな富山は天保期には江戸、大坂、京都の三都に次いで薬店が多い場所となっていたが、天保期にはこれまで大坂で主に仕入れていた薬種の買い付け高が、以前の半分程度にまで落ち込んでいたとの報告がある。これは富山に抜荷品の漢方薬種が供給されるようになったためと推測される。ただし富山の場合、新潟のように各地に抜荷品を広く売りさばくルートが出来るほどではなかったと見られている。
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