唐物の展示場として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 13:59 UTC 版)
「会所 (中世)」の記事における「唐物の展示場として」の解説
会所では、会合の出席者の目を楽しませるため、飾りつけがなされた。その中心は、初期は風流作物だったものの、禅宗の興隆に伴い、日本と宋、元の交流が増えるにつれて、唐物に置き換った。後述するが、唐物は、「美術品」のごとく、その物以上の価値があるように扱われた。そこには将軍家によって、唐物の価値がつけられる一面がある。こうしたとき「唐物目利」として活躍したのが、同朋衆の能阿弥、芸阿弥、相阿弥である。彼らによって書かれた『室町殿行幸御餝記』や『小河御所并東山殿御餝図』から、行幸のときや普段、御所がどう飾りつけられたか、が分かるが、唐物が重視されている有様が見て取れる。装飾の取扱いかたは、臨時と専用の会所によって異なり、臨時の会所では会合が終るたびに撤去していたが、専用の会所では常に飾り付けられるようになっていく。 義満の北山殿にあった会所、天鏡閣は二階建てであり、これには禅宗文化の影響が見え、唐物との親和性はよかったろう。北山殿行幸のとき、和の建物である常御所の飾りが和物で構成されていたことと対比できる。だが、その行幸のとき、三船御会の詩歌の会が催されたり、義満の北山殿の会所も義教室町殿の会所も、その飾りつけは唐物がほとんどだが、決して和物といえるものが飾られていないことから、二項対立だけでは語りつくせない。北山殿の会所は、奥向きの庭、異質な建物の舎利殿のとなりにあったともいわれているし、訪問した客から見れば、多種多彩なものが一度にはいってくる、豪奢な景色になっていたことだろう。 そんな会所に唐物は飾られていたのであるが、飾付けに使われた唐物自体はどう見られていたのだろうか。唐物とは文字通り唐渡りの品であり、バサラ[要曖昧さ回避]文化においては、現代でいうとグッチやカルティエのようなブランド物のごとく、珍奇なものということで大いにもてはやされ、吉田兼好などの知識人からは煙たがれていたわけだが、これを義満は好み、権威づけていった。行幸のおりには会所にも飾られた唐物には将軍家所蔵を示す印がついた。義満の「道有」、「天山」、義教の「雑華室」であり、これらの印がついた宝物は義政のコレクションである「東山御物」へと発展した。将軍家には唐物を「美術品」にするように仕向けるところがあった。将軍は、行幸のときこれを訪問客に見せ、そして進上した。御所に飾られたもの、という箔がついた品は評判高く出回ったことだろう。ここには、唐物を唐渡りの珍奇な品物ではなく、文化的、美的価値のある「美術品」として見る視点が生まれていた、ともいえる。文化的とは当時流行した大陸の禅の匂いであり、美的とは能阿弥、相阿弥、芸阿弥といった同朋衆などの目利きの確かさであった。 将軍家所蔵の唐物は、それだけで由緒がついた宝物となり、大いにもてはやされた。唐物には金銭的な価値も生まれ、売買取引されることまであり、つまり将軍家への富につながった。唐物にまつわるこのようなシステムをつくったのが義満であり、義教の時代に整備され、活用された。
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