牧野忠毅とは? わかりやすく解説

牧野忠毅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/05 04:05 UTC 版)

 
牧野忠毅
時代 江戸時代末期(幕末) - 大正時代
生誕 安政6年3月10日1859年4月12日
死没 大正7年(1918年2月3日
改名 鋭橘(幼名)→忠毅
戒名 淳徳院殿泰興和光望山大居士
墓所 栄涼寺新潟県長岡市東神田)
官位 正五位従四位正四位従三位
越後長岡藩
氏族 牧野氏
父母 父:牧野忠恭、母:千代
養父:牧野忠訓
兄弟 忠毅忠篤
鎮子大久保教義の娘)
清子牧野康哉の娘)
忠治(長男)、喜久子(乃木元智妻)、娘
テンプレートを表示

牧野 忠毅(まきの ただかつ)は、越後長岡藩の第13代(最後)の藩主。長岡藩系牧野家宗家14代。

生涯

安政6年(1859年)3月10日、第11代藩主・牧野忠恭の四男として江戸で生まれる。慶応3年(1867年)に父が隠居したとき、養子である忠訓がいたため、家督を継ぐことができなかった。しかし慶応4年(1868年)の戊辰戦争で忠訓が新政府に抵抗したことを理由に処罰されたため、明治元年12月22日(1869年2月3日)、先代藩主の息子である忠毅が、7万4000石から2万4000石に所領を減らされた上で、家督を継ぐことを明治政府から許された。

牧野忠毅

明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還で長岡藩知事となる。しかし明治3年(1870年)10月22日、廃藩置県に先立って藩知事を辞任し、長岡藩は廃藩となった。同年、家臣と共に江戸に上り、慶應義塾に入学する。長く寄宿し、福澤諭吉らの斡旋で東京在住番所参人となる。

明治8年(1875年)2月2日、病気を理由に隠居し、実父の忠恭に家督を譲った。その後、長岡で療養に努める。明治20年(1887年)12月に正五位、明治25年(1892年)7月に従四位、明治30年(1897年)に正四位、明治36年(1903年)に従三位にそれぞれ叙任している。

大正7年(1918年)2月3日に死去した。享年60。

系譜

父母

正室、継室

子女

  • 牧野忠治(長男)
  • 喜久子 - 乃木元智夫人

参考文献

  • 丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843

関連項目

当主
先代
牧野忠訓
長岡藩牧野家
1869年 - 1875年
次代
牧野忠恭




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「牧野忠毅」の関連用語

牧野忠毅のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



牧野忠毅のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの牧野忠毅 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS