藩主の姻戚関係を利用しての巻き返し工作
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「郡上一揆」の記事における「藩主の姻戚関係を利用しての巻き返し工作」の解説
宝暦4年8月10日(1754年9月26日)の農民らの強訴によって、農民たちの訴えを聞き届ける旨の三家老の免許状が出され、藩主金森頼錦も国元家老の措置を追認したことによって、郡上藩の有毛検見法への年貢徴収法の改正はいったん頓挫した。しかし郡上藩内の年貢増徴派は有毛検見法採用を目指して巻き返し工作を開始した。年貢増徴派は美濃郡代の代官である青木次郎九郎から検見法採用の申し渡しを行い、幕命ということで農民たちに納得させる方法を考えついた。 まず宝暦4年(1754年)12月、藩主金森頼錦の病気見舞いに幕府寺社奉行の本多忠央が訪れた際に、美濃郡代の代官から検見法採用の申し渡しを行うアイデアを説明し、代官青木次郎九郎の上司にあたる幕府勘定奉行の大橋親義への仲介を依頼した。先述のように本多忠央の養子である本多兵庫頭は金森頼錦の実弟であり、縁戚関係を利用しての依頼であった。本多は郡上藩側の依頼を了承し、宝暦5年(1755年)正月、江戸城内で大橋親義に対して郡上藩の意向を伝え、協力を指示した。その結果、大橋親義のもとに郡上藩の江戸家老伊藤弥一郎や、宝暦4年8月10日(1754年9月26日)の強訴時に郡上藩領内から逃げ出した黒崎佐一右衛門らが出入りするようになり、美濃郡代代官である青木次郎九郎を利用して郡上藩の検見法採用を強行する作戦が固められていった。 その結果、幕府勘定奉行の大橋親義は美濃郡代代官の青木次郎九郎に対して郡上藩の検見法採用への協力を命じることとなった。しかし当初、青木次郎九郎は大橋の命令遂行に難色を示した。それは幕領ではない郡上藩領の年貢徴収法について、幕府役人である代官が命令するのは筋違いではないかという理由からであった。そこで郡上藩側は藩主金森頼錦の義理の父に当たる老中本多忠珍、そして大目付曲淵英元にも協力を依頼した。その上で大橋親義から更なる厳命もあり、青木は郡上藩領の検見法採用の命令を行うことは幕命同様のものであると判断し、郡上藩主頼錦ともたびたび相談をした上で、郡上藩領民に対して検見法採用を命じることとなった。なお金森頼錦は青木次郎九郎との相談時に、自らが幕府における重要な職である奏者番を勤めていることをことあるごとに強調し、圧力を加えた。
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