藩主のすり替えの例とは? わかりやすく解説

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藩主のすり替えの例

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:23 UTC 版)

末期養子」の記事における「藩主のすり替えの例」の解説

延享元年1744年12月11日越後高田藩主の榊原政純小平太)が10歳病死した。将軍への正式な御目見もまだであり、養嗣子届け出していなかったため、徳川四天王名門である榊原家断絶危機陥るが、幕閣許可得た上で出生1年違わぬ弟の政従(富次郎)とすり替えることとした。政従は小平太政純として将軍徳川家重御目見し、榊原家家督相続した。のちに何度改名し隠居後榊原政永名乗った宝暦12年1762年)に肥後人吉藩において相良晃長11歳病死した際には、非公式なうちに姻戚公家から迎えた相良頼完相続し幕府には晃長が病気全快して後に頼完と改名したということにした。 明和6年1769年)に豊後臼杵藩において、稲葉副通が父泰通の死去による家督相続行ったが、その1年足らずのち、御目見もまだのうちに16歳急死した。藩は慌てて庶兄稲葉弘通父の死後ただちに家督相続したこととし、副通の相続はなかったものとした。 安永6年1777年)に備中生坂藩備前岡山藩支藩)において、池田政房同様に父政弼の死去による家督相続から1年足らずのうちに3歳夭逝した際には、宗家岡山藩主庶子密かに江戸迎えられ替え玉立てられ同名名乗った。後に池田政恭改名した天明5年1785年)に対馬藩主宗三郎が初御目見なしに15歳死去した際、対馬藩家老幕閣内密に相談すると、他家において藩主急死の際に別人替え玉仕立てた例を示唆され三郎の弟富寿に同名名乗らせるという藩主すり替え行っている(富寿は元服後に義功と名乗ったため、三郎も義功の名で呼ばれる)。 以後次のような藩主すり替えが行われている。これらは幕府に対して内密行われた文政4年1821年)に陸奥盛岡藩11南部利用南部利用同名名乗る文政10年1827年)に播磨赤穂藩10代 森忠貫森忠徳天保4年1833年)に筑後柳河藩10代 立花鑑広立花鑑備また、文政8年1825年)には備中鴨方藩岡山藩支藩)において、極めて病弱ながら存命であった池田政広とその弟の政善を、初御目見前にすり替えることが行われた。 こうしたすり替え多く場合すり替えても不自然ではない年齢で血筋上も妥当な相続者高田藩臼杵藩対馬藩赤穂藩柳河藩鴨方藩ケースでは兄弟)を一族内から選び、藩内で内密に行われたが、人吉藩ケースでは両者とも他家姻戚関係はあった)からの養子であった

※この「藩主のすり替えの例」の解説は、「末期養子」の解説の一部です。
「藩主のすり替えの例」を含む「末期養子」の記事については、「末期養子」の概要を参照ください。

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