藩主のすり替えの例
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延享元年(1744年)12月11日、越後高田藩主の榊原政純(小平太)が10歳で病死した。将軍への正式な御目見もまだであり、養嗣子の届けも出していなかったため、徳川四天王の名門である榊原家は断絶の危機に陥るが、幕閣の許可を得た上で、出生が1年と違わぬ弟の政従(富次郎)とすり替えることとした。政従は小平太政純として将軍徳川家重に御目見し、榊原家の家督を相続した。のちに何度か改名し、隠居後に榊原政永を名乗った。 宝暦12年(1762年)に肥後人吉藩において相良晃長が11歳で病死した際には、非公式なうちに姻戚の公家から迎えた相良頼完が相続し、幕府には晃長が病気全快して後に頼完と改名したということにした。 明和6年(1769年)に豊後臼杵藩において、稲葉副通が父泰通の死去による家督相続を行ったが、その1年足らずのち、御目見もまだのうちに16歳で急死した。藩は慌てて庶兄の稲葉弘通が父の死後ただちに家督を相続したこととし、副通の相続はなかったものとした。 安永6年(1777年)に備中生坂藩(備前岡山藩の支藩)において、池田政房が同様に父政弼の死去による家督相続から1年足らずのうちに3歳で夭逝した際には、宗家の岡山藩主の庶子が密かに江戸に迎えられて替え玉に立てられ、同名を名乗った。後に池田政恭と改名した。 天明5年(1785年)に対馬藩主宗猪三郎が初御目見なしに15歳で死去した際、対馬藩家老が幕閣に内密に相談すると、他家において藩主急死の際に別人を替え玉に仕立てた例を示唆され、猪三郎の弟富寿に同名を名乗らせるという藩主すり替えを行っている(富寿は元服後に義功と名乗ったため、猪三郎も義功の名で呼ばれる)。 以後も次のような藩主すり替えが行われている。これらは幕府に対しては内密で行われた。 文政4年(1821年)に陸奥盛岡藩(11代 南部利用→南部利用:同名を名乗る) 文政10年(1827年)に播磨赤穂藩(10代 森忠貫→森忠徳) 天保4年(1833年)に筑後柳河藩(10代 立花鑑広→立花鑑備) また、文政8年(1825年)には備中鴨方藩(岡山藩の支藩)において、極めて病弱ながら存命であった池田政広とその弟の政善を、初御目見の前にすり替えることが行われた。 こうしたすり替えは多くの場合、すり替えても不自然ではない年齢で血筋上も妥当な相続者(高田藩、臼杵藩、対馬藩、赤穂藩、柳河藩、鴨方藩のケースでは兄弟)を一族内から選び、藩内で内密に行われたが、人吉藩のケースでは両者とも他家(姻戚関係はあった)からの養子であった。
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