藩主の江戸からの帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)
藩主の身の安全のことや、朝敵と誤解されるのを恐れ、1月28日、藩主を帰国させるよう家老4人の連名で書状を出す。使者は大目付里村縫殿、郡奉行三浦四一郎。江戸では窪田平兵衛、速水八弥が京都におり、老齢の溝口伊織のみだったため、事が遅れ、国許から溝口内匠が応援で出張し、2月22日直正は御用人坂井数馬、入江八郎左衛門ら300人余の御供と共に江戸を出立。帰国理由としては、朝廷からの北陸道鎮撫使が越後へ下向されるので、領内取締りのためということで、幕府の許可も得る。 帰国の道筋について、会津回りで行くか、信州回りで行くか議論があった。しかし、老練な溝口伊織は、信州回りでいけば、会津からの疑念が強まると考え、いつもどおり会津回りで行くべきと考えた。会津若松城下の宿に宿泊中、会津藩家老・萱野長修より、激高している若い藩士が不測の事態を起こすかもしれないので、藩主の命により我が藩が宿を警備すると申し出がある。さらに出立のさいには、新発田藩との意思疎通のため、藩士武田五郎ほか5名を同行させ、新発田に滞在させて欲しいと注文が来る。新発田を監視するためである。どこの藩でもそんなことは認めないものだが、別の難題を持ち出されても困るので、新発田藩はこれを承諾した。直正は3月5日に帰国の途につく。 直正帰国の3日後、今度は老候静山が江戸を出立。静山は前藩主溝口直溥で、持病のため前年に隠居していた。筆頭家老の溝口伊織、御用人仙石九郎兵衛以下200人余の御供を連れて、15日会津へ到着。会津藩家老西郷頼母、藩士西郷勇左衛門が新発田の宿にやって来て、溝口伊織と会談した。西郷は新発田の諸々の疑念について静山公に会って問いただしたいという。伊織は我が公は持病があるのでお会いさせるわけにはいかない、私が貴藩の藩主に会って弁明すると答える。会津はそれを断り、お互いそれ以上は相手を追い詰めることはしなかった。会津は事ある毎に、新発田への憤激を意思表示していく。直正のときと同様、西郷勇左衛門が新発田へ同行し、滞在した。会津兵の新発田城下滞在は、特に軍事方の憤激はひどく、上申書を出したり、藩庁に献策したりした。
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